藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

リスクを忌避するわけ。

糸井さんのブログより。

「停滞」のくり返しによって生じてくる「恐怖」が、
 なによりの敵になるのだということ、とか。

成功体験が自信を作り、それが積極性につながる。
逆も同様で、失敗ばかりして成功体験がないと、無意識に積極性を失っていく、という話もよく耳にする。

自分の親友が、しみじみ「もう立ち上がれないほどの挫折」は正直怖いけれど、失敗しないで「薄い経験」のまま年をとるのはもっと怖い。
「じゃ結局一番いい経験は"適度な大失敗"ということですねー。でもそんなもの都合よくないですしね。」
とため息交じりに話していたことを思い出す。

誰だって進んで「痛いこと」をしたくないし、けれど「知らないこと」はそれ以上に恐ろしいことだ、ということも何となく分かっていたり。

そしてさらに恐ろしいのが加齢だろう。
もう、もともと色々と面倒な「いろんなこと」自体が「全体的になんとなく、億劫に」なってくるのである。
これは停滞や挫折への恐怖よりも「じわじわくる」だけに恐ろしい。
気がついたら、外見だけでなく、気持ちが老けている、ということに、年とともに配慮せねばならないと思う。
よく「目が老眼になってから」新しいことへの取り組み意欲が減退した、という話を聞く。
そんな「気持とは一見関係のない原因」も、外部と自分との関係を徐々に阻害し、「気持ち」を弱らせていくのだろう。

思考する力そのものは、経験によって上がっているに違いない。
気持ちの老化は、気を付けていれば防げるものなのではないだろうか。
ということは、やはり健康も大事な要素に違いない。

・どうも、ぼくは「停滞」というものについて
 考えるのが好きみたいだなぁ。
 「停滞」は、どんな才能の持ち主にもやってくる。
 飛ぶ鳥を落とす人のところにも、
 「停滞ってなに? それおいしい?」なんていう
 自信家のところにもやってくる。
 個人ばかりじゃなく、組織だとか企業にもやってくる。
 その、こんなところまで首つっこむときりがないけど、
 「経済」にだって「停滞」はやってくるわけだよね。
 
 最初から種明かしみたいに言っておくけれど、
 ぼくが、どうしてこんなに「停滞」について
 しょっちゅう考えているかというと、
 ひいきの野球チームが、しょっちゅう、
 「どうしてそんなに弱いのか」というような
 人によっては「絶望」と呼びそうな状態になるからだ。
 なにをやっても、そんなはずじゃない感じ。
 ほんとは強かったんじゃないかと思うからこそ、
 なおさらに、どうしてそんなんなっちゃうのかよ?
 どうしたら、なんとか抜け出せるんだろう?
 と、幾度も幾度も考えてきたというわけなんだよ。
 これは、たぶん、どこかのスポーツチームの
 ファンをやってる人なら、みんなやってることだと思う。
 「いいときは、あんなに強かったじゃないか」
 という期間があったりするから、なおさらじれったい。
 
 で、そういう理由で「停滞」について考えていることで、
 じぶんの身の回りにある「停滞」について、
 少しは応用できるような考えも身につけていたりもする。

 精神論で乗り切ろうとあせると、そうやって
 うまくいかなかったときに激しいダメージになる、とか。
 「停滞」の原因やら理由をひとつの問題にしてはダメで、
 複数の解決可能の問題に小分けして解決を図る、とか。
 
 けっこう、自前で考えた法則はあるんだよな。
 だから、じぶんが当事者のときには、
 あんがい、そういう心づもりで冷静になったりできる。
 (きっと‥‥原監督も、そうやってるんだろうなぁ)

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
まじないや気休めじゃなく、笑顔っていうのは大事だよ〜。