藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

自分を計算。

こんなにも計算する項目があり、また自分たちの生活でも「計算項目」はこんなにあるのだ、ということから。
こういうのが全部、自分の事だったらどうなるだろうか。
「人生の+-計算」
「人生の平均値」
「あなたの性格の正規分布
「あなたの寿命」
「あなたの肥満予測」
「病気の予測」
「あなたの借金、財産予測」
「幸せの計算」
「不幸の計算」
「平均単価」。

数値で計算できるものも沢山あるが、できないものの方が多いし、また「できないもの」の方がより「数値化してみたいもの」ののようでもある。
自分の性格の正規分布、なんて一度客観的に見てみたいじゃない。

では自分の価値観は何で計るのか?

ということが課題になる。
それがはっきりすれば計算は容易である。
ということは「自分の価値観基準をどこまで鮮明に、詳細に考えられるか」ということが、「自分の計算」の最も重要な部分になるのだ。

結局。
計算の結果に興味がいってしまうが、実は計算のプロセスとか「そもそもの基準」がはっきりしていないと計算に意味がない、ということに気づく。
そしてその「基準」とか「目盛り」が明確であれば、計算などはただの結果の数値であり、大した意味はなく、そうした自分のオリジナルを追求することが、実は自分の人生なのだろうと思う。

計算という数学的な行為が、結局はその数学ではなく、自分の心中の概念に基づくものだということを気付かせてくれる、というのには新鮮な思いがした。
ついつい「何%」という数字で語りがちだけれど、それはそもそも「目盛次第」であることを改めて考えてみたいと思う。