藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

生まれながらにして生かされて。

聖路加の日野原先生は若いころの大病とよど号のハイジャック事件から生還し、「生かされた」ことを実感したという。
それからの生き方に明確な影響を与え、また常に希望を持てるようになったと聞いた。

「生まれて来たことに意味がありません」という話を以前学生さんから聞いたことがある。

自分の将来に、あるいはこれまでに大した意味を見い出せないということだが、人はどうしても生を死との対比でしか捉えられないのだろうか。

実際に今の日本などでは死の危機に遭う可能性は低く、近親者まで入れても戦争中の比ではない。
安全は人間を生の意識から遠ざけてしまうものなのだろう。
けれど実際に危険な目にわざわざ遭って身をさらすのも難しい話である。

楽しみの陰には苦労があり、
成功の陰には無数の失敗があり、
笑いの陰には涙あり。

また日々が充実してきて幸福感を得たら、今度はそれを失う恐怖を持つのも当然のことである。
宗教というのはそういう「自分の起源」のようなことを上手に納得させるような物語を持っているから、自分の存在についてあまりに考え込むことを防いでいる役割があるようだ。

他人との対比でなく自分自身を見い出すこと、は一見とても難しいことだが、自分なりの「定義」を見つけて自分に軸を作るというのは大事なことのように思う。
結局人に質問されて、自分の内面はどうなのだろうかという疑問が返ってきた。
今はただ生かされているのだ、と思っている。