藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

認証と記録の時代。

日立が新しい静脈認証のシステムを開発したという。
応用分野は広くて、こうしてみると「あらゆる物」に認証が可能になってくる。
今や街中の監視カメラから隠れて行動するというのは難しい時代になっているが、「何でも認証」がもたらすデータは膨大だ。

つまりは記録だ。

「認証と記録」がセットになることで"点と線"がつながる。

記事中では車のドライバー認証とか運転軌跡(安全運転かとか)が記録できるというが、追跡の拒否さえしなければ朝起きてから寝るまで、いや寝ている最中も24時間「自分の記録」を録ることが可能になる。
あまり愉快ではない気もするけれど、こういうのがITの真骨頂でもある。
認識票よろしく生まれたばかりの子供に首飾りを付けておけば、その子の一生を記録できる。
それは移動の記録や食べ物とか健康状態とか、あらゆる物が記録の対象になり得るだろう。

自分史というものが自然にできる。
一番それに関心があるのは他ならぬ自分自身に違いない。
十代の自分の行動とか、感じていたこととか、見たシーンとか。
誰と出会い、何を学び、何に打ち込んでいたかをリアルな記録で見るのは何よりもの自分レビューができるに違いない。
そうした連続的な記録によって「定点観測」がとてもし易くなるだろう。
毎年年末になって振り返る「この一年」も実に鮮明になるし、「私の三十代・四十代」とかを俯瞰的に眺めてみるのもいいだろう。

自分の過去を赤裸々に思い出すというのは、ちょっと恥ずかしいところもあるだろうけれど、嫌なことを記憶のかなたに押し込めて頬っ被りしてしまうのではなく、自分の軌跡は正視してみたいものである。
「あなたは今年360日、お酒を飲んで、100日は二日酔いでした」とか聞かされると反省しきりだと思うのであった。