藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

出会いの性質。

面白いかも、と思って買った本とかCDとかビデオとか。
さらには人の紹介とか出会いとか。
初めての飲食店とか。
絶対に面白い、と事前に約束されているものなどまずない。
ある先輩曰く「いい店に出会う確率は挑戦に比して一勝四敗。」とのたまっていた。

勝算が二割を切っていても「面白そうだ」の魅力は強い。

おもしろかろうが、おもしろくなかろうが、
読めば、本に出合えたという経験は蓄積される。
「ああ、あの古典の名作ね、おもしろくなかったぁ」
なんてことを言っていても、やっぱり、
買って、読んで、つまり本に対してはたらきかけたことは、
よかったのだと思う。
読みもしない目利きよりも、本を読んでおもしろかったり、
おもしろくなかったりの経験をした人のほうが、
よかったということになるのではないだろうか。

チャレンジする意義、というと大げさだけれど好奇心。
これがないと実につまらない。
チャレンジにすら興味がなくなるから、今の自分の範囲から広がるものはほとんどなくなってくる。
老化というのはそういうことかもしれない。

おもしろいも、おもしろくないも、100%であるはずもない。
はたらきかけたこと、出合ったことがあっただけでも、
よかったと思えるようになったら、すべてが栄養になるね。
なんにでも、ちゃんとつきあうことが大事なのかな‥‥。

「そんな出会いがあったこと」にも感謝する。
ちょっとお寺のご住職の講話のようだけれど、これはそういう思考法なのだ。
「全然よくなかったよ」と思い、負のイメージを自分に蓄積するのも、
「いやいやよかったな」と少しの喜びにするのでは、その集積の果ては正反対のものになるだろう。
何にでも感謝しなさい、と言われてしまうと「またそんな仏様のようなことを…」と思ってしまうけれど、今日会ったミーティングとか、掛かってきた電話はちょっとは何かいいことの前兆かもしれないし、今後につながるかもしれない。
プラスのことだけを探すと"全然ないじゃん!"と言いたくなるが、「プラスになるかも」を許せば結構なことが「悪くないこと」に分類されるような気がする。
そのなかから少しでも本当のプラスが出てくればめでたしめでたし。

道端の小さな出会いも大切に、というのは映画の題材にもよくなるけれど、案外そんな気持ちのスタンスが「割合大きな」チャンスを連れてくることもありそうだ。
お寺の教えってどこか深いものである。

おもしろそうだと思って買った本が、
おもしろくなかったとしても、
そんなにがっかりするものではない。
おもしろそうだ、と思った時点で、
おもしろくないかもしれないということは、
当然、想像のなかに入っていたからである。

ちょっとおもしろそうだ、という場合などは、
おもしろい可能性が「ちょっと」だと思っているわけで、
こういうときには、もっと、
おもしろくなくてもしょうがない、と思っているのだ。
だから、ほんとに「ちょっとおもしろかった」りすると
けっこううれしくなる。

おもしろいに決まってる、なんてことは、ほとんどない。
それでも、買ったということは、
「おもしろい」を見つけたいという意志があったのだ。
おもしろかろうが、おもしろくなかろうが、
読めば、本に出合えたという経験は蓄積される。
「ああ、あの古典の名作ね、おもしろくなかったぁ」
なんてことを言っていても、やっぱり、
買って、読んで、つまり本に対してはたらきかけたことは、
よかったのだと思う。
読みもしない目利きよりも、本を読んでおもしろかったり、
おもしろくなかったりの経験をした人のほうが、
よかったということになるのではないだろうか。

そんなふうに考えてみると、本も映画も同じことだ。
いや、人とつきあうことも同じかもしれないし、
ひとつひとつの仕事とのつきあい方も同じだという気がする。
期待しすぎると、力んでしまったりするし、
「ちょっとおもしろい」くらいの気持ちでつきあうと、
結果的に感じられた「ちょっと」がとてもうれしかったりする。
あんまり大事に扱いすぎると、取り掛かるだけで肩に力が入るので、
最初のスタートを切ることさえむつかしくなったりね。

おもしろいも、おもしろくないも、100%であるはずもない。
はたらきかけたこと、出合ったことがあっただけでも、
よかったと思えるようになったら、すべてが栄養になるね。
なんにでも、ちゃんとつきあうことが大事なのかな‥‥。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
吉本隆明さんが「そらさない」という言い方をしていたっけなぁ。