藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

芸術の核とは。


中村紘子さんの復帰記事より。
少し話が違うが、自分はコンピュータに触れると、いつもソフトウェアとハードウェアということを考える。
それは音楽を聴くといつも精神と肉体のことを考えるのにどこか似ている。
また音楽家の演奏を聞くと、肉体の極限に挑むアスリートのことが思い浮かぶ。

ただ、レッスンなどで接する若手については、「リストのソナタをかすり傷一つなく演奏するほど身体能力は抜群だが、曲をどうとらえているか、精神的なものが足りない」。そうした気迫が感じられない演奏家をひ弱と評す。「心の陰影が乏しく、想像力に欠けている。人の心に食い込み感動させる演奏をしてほしい」と注文をつける。

強靭に鍛えられ、訓練された肉体。
そこにさらに「精神的なもの」が必要だという。
それがない演奏家は「ひ弱」とも。

必要な物は「心の陰影、想像力」。
人の感動とは「人の心に食い込むこと」なのか。

まず肉体の鍛錬が必要なことは確かだが、それができてようやく50%なのか。
残る半分は「精神的」に鍛えねばならない、というのが芸術とか修行の本質のようである。
肉体だけでもなく、精神だけでもない。
だから複雑で難しいのだ。 

そんな厳しさは、自らの演奏への探求心の裏返しでもある。「演奏は、自分を見つめる作業。したたるような柔らかい音など、自分の求める音を出す様々な演奏技術を、自分の心と直結させて操ることが出来るようになったのは、つい最近のこと」と話す。

パズルや課題は難しいほど面白い。
けれど全く正解に近づけない課題ではそのうちやる気が失せてしまう。

演奏技術という「肉体的な鍛錬」と自分の心を「直結させて操ること」。

芸術の本質というのはひょっとしたらこういうことなのかもしれない。
習い事の最初の精神性の教えがあるのは、きっとこうした精神と肉体とのバランスが重要な故なのだろう。
やはり人は精神性が主導して進化してゆくもののようである。
生涯にわたってそうしたテーマを一つでも見つけておくことは大切なことなのではないだろうか。

休養明け公演、中村紘子…演奏は自分見つめる作業


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「自分自身の演奏を作り出すことに、エネルギーと時間がかかった。ようやく、まともに弾けるようになったのは、50歳を過ぎてから」=片岡航希撮影


大腸がんの治療を続けながら演奏活動を再開したピアニストの中村紘子が、休養明け初めての東京公演を19日、初台の東京オペラシティコンサートホールで開く。
 舞台復帰の喜びと抱負を聞いた。
 抗がん剤の入院治療による約1か月の休養を経て、3月6日の浜松公演から演奏活動を再開。ピアノに向かう気構えに変化はあったのだろうか。
 現在、70歳。「年齢を考えると、この町での演奏はこれで最後かと思うことも。一期一会で、出来る限りの演奏をお聴かせしたい」と快活に話す。日々の練習と治療スケジュールの調整に苦心しながら、「だまし合いながら続けていく」とほほ笑む。
 19日は「ロシアの六月」と題したトーク&コンサート。演目はムソルグスキー展覧会の絵」を中心に、チャイコフスキー「四季」から「6月 舟歌」ほか。
 突然、「私、大発見したの」といたずらっぽく笑い、「展覧会の絵」の有名なプロムナードの主題を口ずさみ始めた。
 19世紀の大作曲家の旋律は、展覧会場を歩く様子を表現したもの。だが、人間が歩む2拍子とは異なり、郷愁のあるメロディーと5拍子などのリズムが印象的だ。中村はそこから自由に想像を膨らませ、日本の曲との類似点や、酒におぼれた作曲家の着想に思い至ったというのだが、その興味深い内容は公演でのお楽しみだ。
 浜松国際ピアノアカデミーの音楽監督を長く務めるなど、後進の育成にも力を注ぎ、「今後はもっと本腰を入れたい」と意欲を見せる。
 ただ、レッスンなどで接する若手については、「リストのソナタをかすり傷一つなく演奏するほど身体能力は抜群だが、曲をどうとらえているか、精神的なものが足りない」。そうした気迫が感じられない演奏家をひ弱と評す。「心の陰影が乏しく、想像力に欠けている。人の心に食い込み感動させる演奏をしてほしい」と注文をつける。
 そんな厳しさは、自らの演奏への探求心の裏返しでもある。「演奏は、自分を見つめる作業。したたるような柔らかい音など、自分の求める音を出す様々な演奏技術を、自分の心と直結させて操ることが出来るようになったのは、つい最近のこと」と話す。
 東京公演は午後1時30分開演。(電)03・5774・3040。(岩城択)
2015年06月17日 08時00分 Copyright © The Yomiuri Shimbun