藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

全部が人生。

糸井さんのブログより。
よく結構無茶で無法なことをする人が「人生一度きりだから」というのを聞くことがある。
一度しかない人生だから他人に迷惑をかけてもいい、ということではないと思うが、時に自分にそう言い聞かせて決断しているのである。

確かに人生は一度きりなんだけれども、その一度の人生は「引きずって」いかねばならない。
一度しかないからこそ、そこでしてきたことも「同時に背負って」行かねばならないのである。
人生一度きり、は人生全部背負っていく、ということなのだ。

やったことは全部自分にのしかかってくるし、だから決心してやったことには意味もある。
無茶をするときのための言い訳じゃなく、「これからを背負うための言い訳」にしなくちゃならないと思う。

それにしても「歴史に学ぶ」と先人たちは言うけれど、自分たちは驚くほど「今」を生きている。
多少歴史を参考にすることはあるけれど「歴史と全く同じ今」というのはない。

ローマ時代はこうだったから、今回はこうしようということにはならないのだ。

つまり歴史から経験則的に学べるものは、信頼とか裏切りとか、嫉妬とか愛情とか犠牲とか献身とか、いわゆる普遍的な道徳観のようなものしかないのではないだろうか。

人生は一度きりしかないのだから、後々「失敗してもやっておけばよかった」というような悔恨は残さないように。

"失敗するつもり"でもやりたいのならやってごらんなさい。

ということだろう。
そうすると、他人を害するようなこととか、一気に谷底に落ちてゆくようなことというのはあまり軽挙にやれないものだ。
そこで色々考えて決断することそのものに意味があるのだろうと思う。

「ちょっとやってみて引き返す」という半端なことだって十分選択肢にはあると思うのです。

・「人生は一度しかないんだから、
  やろうと思ったらやんなきゃだめだよ」って、
 よく言われるし、言ったりもしますよね。
 そうだなぁ、「あれをやっておけばよかった」とか、
 年をとってからじゃ無理になっちゃうものな。
 「人生は短い」というのも、そうだなぁと思いますが、
 なんというか、そういうことって、言いやすいんです。
 「人生」って、かたちや重さのある
 「実体」がないから、語りやすいんですよね。

 「人生」って、英語ではLIFEなんですが、
 これも、日本語の「人生」以上に、よく語られてます。
 そして、LIFEって、「生活」っていう訳語もあります。
 「人生」と「生活」は、同じことばで表されるんですね。
 これも、そういえばそうかもしれないと思います。
 
 最近になって、LIFEのもうひとつの意味、
 「生命」ということばを思い出すようになりました。
 心臓をどくんどくんさせているようなイメージ。
 全身に血液を循環させている生身(なまみ)。
 そっちのほうは重みのある「実体」そのものなんです。
 じぶんの身体に手で触れたら、それはもう、
 いのちという意味でのLIFEがそこにあるわけです。
 
 生きているいのちとしてのLIFEを重ね合わせて、
 「人生は一度しかない」ということを、
 「人生(いのち)は、ひとつしかない」と
 読みとることもできるんですよね。
 「やれるときに、やろうよ。いのちはひとつしかない」
 と、こころから思えたら、
 ものの見え方や、時間との関わり方が
 ずいぶんちがってくるような気もします。
 
 人生=生活(暮らし)=生命(いのち)。
 これが同じものだと、頭ではわかっていたはずなのに、
 ぼくは、ずいぶんと、うかうかしていたように思います。
 人生が一度しかないということは、
 つまり、いのちはひとつしかないということです。
 人生(つまり、生活、つまり、いのち)は、
 生き生きした実体そのものとして、ここにあるんだぞ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
休むのはいい。止まるのもいい。鼓動がありさえすればね。