藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

何を学ぶか。

無知の知というけれど、知らなければそれで済むということは実に多い。
というかそれは他人からの目線であって、当人は知らないということすら知らない。
だから、少し何かを知ってしまうとその周辺を掘り出して、さらにその周辺は扇状に広がってもう掘っても掘っても追いつかなくなる。
知識というのはそういう特性を持っている。
知識が知識を呼び、いつの間にか「知識そのもの」が自己目的化して知識お化けみたいになっていることもある。まあ他人がとやかく言うことではないけれど。

物を知っていることはどれほど重要だろうか。
その知識を応用して、その他の出来事に当てはめてみることの方が重要ではないだろうか。
さらに、色んな当てはめから一つの原理とか、法則のようなものを見つけ出すことはできるだろうか。
知識の量はとてつもなく膨大だが、そんな原理とか法則ですら、どこに幾つくらいあるのか見当もつかない。

自分が日々生活している中で、より身近なものから感じている気がするけれど、できるなら自分の意思で能動的に歩んでいきたいなぁ、などと思う。

まぜっかえすわけではなく、戦後に生まれて義務教育を受けてきたけれど「こんなに自由なんだ」ということに気付いたのは最近だ。
何か周囲から閉塞感を感じていたのは、より遠くから自分を見ることが出来ていなかったからなのだ。
長いけれどあっという間の80年だから自由に何でも選択していけばいい。
「これしかない」って決まったものは案外に少ない。

・じぶんが、こどものころは、
 「大人ならなんでも知ってる」と思ってたよ。
 
 さてさて、こどもも、だんだん年をとって、
 いつのまにか大人になるのかと思ったら大まちがいで、
 なかなか大人になれないものだとわかった。
 それがわかったというだけでも、
 ちょっとは大人になったのかもしれないけれどね。

 それでも、少しずつ知ってることは増えていた。
 こどものころよりも、本もたくさん読んだし、
 いろんな人にも会ってきたし、
 経験というようなこともちょっとずつやってきたかな。
 でも、こどものころに思っていた
 「大人ならなんでも知っている」感じとは、
 ずいぶん遠いものだった。
 
 大人に近づいている、とは言えるかもしれない。
 「知らないことがたくさんある」ということを、
 知ることができたからね。
 そして、じぶんの知らないことも、
 誰かが知っているだろうということや、
 知っている人が書いたものが、
 おそらくどこかにあることも知ったように思う。
 なんでも知らなくても、知ろうとさえすれば、
 知ってる人にも会えるし、調べることもできるよね。
 ま、そういうことは、こどものころにはわからなかった。
 
 なんでもは知ることができないとしたら、
 「これだけは知っておきたい」ということがあるのか?
 そのことは知らなくても、これは知っておかなきゃとか。
 ‥‥あるのかなぁ、ないんじゃないかな。
 新聞の一面というところに書いてあることが、
 いちばん大事なことだと言う人もいるんだけど、
 ぼくは、「そうなのかなぁ」と思っている。
 大事じゃないよ、と言うつもりもないけど、
 「そうかなぁ」と思っていたほうがいいかもしれない。
 
 好きな大人が見つかったら、その人のどこがいいのか、
 じっくりと、よく考えてみるのがいいかもしれないね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「ほぼ日小学生新聞」ってやつの、見本を書いてみました。