藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

食べるものを選ぶこと。

イトイ新聞の記事から連想したのだが、「吐くタイプと下すタイプ。」
とっとと「吐いてしまう」タイプと消化吸収をして「下す」タイプ。
結局排泄するのがご愛嬌というところだが、自分はどうだろうか。

そう考えると頭では「消化しよう吸収しよう」という思いが強いけれど、大半は未消化でそのまま出しているな、と思う。つまり食べ過ぎか。
インプットととアウトプットで言うとインプット過多だ。
毎日触れるネットとかメールとか、新聞にしても何誌も読めるしそうした情報に触れている方が閉塞感がない。
その日のニュースなどを驚くくらい皆が短時間に知っていることに驚くけれど、自分も全くそのうちの一人である。
どんどん口から入れて、どんどん出す。
結局吸収する中身がますます薄い感じがする。
日々の情報にあえて触れずにいるのはある種勇気のいることだけれど、時間はとっても有限だ。
本当に知りたいこととか学びたいこと、手掛けたいこと以外は「どのように避けていくか」というのは今の時代のキーワードではないだろうか。

・人には「吐く」タイプと、「下す」タイプがあるなぁと、
 ふと思ったのでした。

 「吐く」タイプの人は、受けいれかけたものを、
 客間というか胃まで入れて、入口から帰ってもらう。
 返品だとか、廃棄とか、「なかったことにしましょう」
 というかたちで、危険に対処しようとするわけです。
 「もうちょっとつきあってから決めればいいのに」、
 とか、他人は思うかもしれませんが、
 もともと縁がなかったと思えばいいので、
 さばさばと「吐いて」しまいます。

 「吐く」ということで、いちばん有名な小説は
 サルトルの『嘔吐』かもしれませんが、
 いちばん激しくも迫力ある表現は、
 映画『千と千尋の神隠し』においての
 カオナシの、津波のような嘔吐シーンでしょうね。
 あらゆるものが、すべて未消化のままで吐かれるから、
 もともとなにを飲みこんだのかが一目瞭然でした。

 なんか、いまの時代は「吐く」ことで、
 身を守っているという気がします。
 人間は、「吐く」ことができますが、
 動物みんなが「吐く」ことができるわけではなくて、
 ラットやマウスなどは、吐けない動物らしいです。
 
 もうひとつの「下す」タイプというのは、
 とにかく飲みこんでしまって、体内をめぐらせて、
 かなり消化も吸収もした後に、出口から急排出します。
 どちらかと言えば、ぼくはこっちのタイプだと思います。
 「吐く」可能性のある段階では、
 まだ判断は早いとか思いたがるんでしょうかね。
 いちおう、じぶんのなかにとり入れてから「下す」ので、
 未消化でも使用済みですから、返品はできません。
 ただ、いままでにない栄養がつくかもしれない、
 という期待は「下す」タイプのほうがあるかもしれない。
 
 「吐く」も「下す」も、味は味わえるんですよね。
 見るとか触れるとか、味わうとか、できるのは同じ。
 消化しようとするかどうかだけが、ちがうんですかね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なんにせよ、腹八分目が無難です。食べ過ぎは万病の元。