藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

オルタナティブ。

志らくさんのコラムより。馬鹿論。

「馬鹿は状況判断ができないやつ」
「こういう連中は常に世の中のせいにする」
「快適を求めてさまよう」
「からっぽのくせに自分探し、など意味はない」

なるほど。
その核心は自己否定か。
肯定と否定。
ま反対だがどちらも必要だろう。
どちらも勇気のいることだ。
ひょっとしたらこの二つって同じことかもしれないと思う。

「否定した自分」もその後、肯定しなければならない。
「肯定した自分」は否定なしにはただの極楽漢でしかない。

常に盾と矛のようなこの二つを使って自分を伸ばしてやる…
冷静に自分を見ることこそが一番大事に違いない。

馬鹿論 立川志らく

「馬鹿(ばか)は隣の火事より怖い」。師匠談志が良く言っていた言葉だ。談志の知人宅が火事に見舞われた事があった。隣家からの貰(もら)い火だったのだが、その隣人が大変な馬鹿だったとの事。馬鹿は隣の火事より怖い、その馬鹿が隣に住んでいた、という落ち。談志は馬鹿の定義を「状況判断が出来ない奴」としていた。今風の言い方をすれば空気が読めない奴。私は更に「己を否定できない奴」が馬鹿だと思う。馬鹿な奴は間違いなく他者を否定して己を肯定する。

 私の弟子の中で辞めていく者が沢山(たくさん)いたが皆そうであった。落語界がおかしい、師匠の教え方が酷い、兄弟弟子に馬鹿がいる、云々(うんぬん)。あっているところもあるのだが、こういう連中は常に世の中のせいにする。自分はこんなに頑張っているのにと嘆く。その頑張りが世間のいう頑張りには到底行き着いていないのに。当人は小さなコップの水を溢(あふ)れさせているから頑張っていると主張するが、世間の頑張っているというのは大きなプールの水を溢れさせる事を指す。他者を否定して自分は間違っていないと思い込み、ここは自分がいるべき場所ではないと快適な場所を求めて辞めていく。

 言っておくが若者にとって快適な場所なんかろくな場所ではない。不快に決まっている。利口な人間は不快な場所を快適にしようと日々生きているのだ。まず自分は間違っているのではないかと疑う。何故(なぜ)ならばその空間はすでに成立しているのだから。勿論(もちろん)、悪がはびこっている場合もあるがそれを変えるために改革をしていくのだがそれはまた別の話。自己を否定して他者を肯定してはじめて人は前進できる。例えば小津安二郎の映画を若者に見せたとしよう。退屈に感じるだろう。そこでこの監督はつまらない映画を作るんだ、たいした監督ではないと己の感性を優先して小津を否定したら。

 先人達が評価してきたにもかかわらずそれは無視して己の判断を正しいと思う怖さ。馬鹿な奴はその連続、積み重ねで歳を重ね、結果もののわからない馬鹿の塊と化する。沢山いるよね、自分の意見こそ正義だと主張する人。自分は未熟でまだ小津を理解する知識も経験もセンスもないと思う事が進歩の第一である。私は絵画が好きだが未(いま)だにピカソの魅力がいまひとつわからない。だからといって、ピカソはたいしたことはないと言ったら笑い物だ。まだ絵を観(み)る能力が未熟なだけである。勿論好き嫌いは別。

 ついでに言うと若者はやたらと自分探しの旅に出る、なんて事を言うが、私は言いたい、旅なんぞに出るなと。若いうちは空っぽなのだ。空っぽの奴が自分を探しに行ったって何にも見つかるはずもない。旅に出る前にちゃんと支度をしなさい。つまり沢山の物を吸収してそれから自分探しの旅に出なさい。あと、馬鹿の怖いところは聞く耳を持っていない。いくらこちらが理路整然と懇切丁寧に話してもわからない。それは理解する能力を持っていないと自己を否定できないからである。

 馬鹿にはどう対処すべきか。談志は痛みと恐怖を味わわせるしかないと言った。乱暴な意見ではあるが世の中の仕組みがそうなっている。罪を犯した人間に刑罰を与えるというのがそれだ。言っても分からない。ならば痛みを与えればとりあえず謝る。対処方というかこちらの解消方だが。

(落語家)