藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

正しさだけでなく。

若者と話していて一番面白いのは「新語の使い方」かもしれない。

最近では"刺さる"という言葉に感心した。
「あれは刺さりましたねー」なんて使っている。

自分たちだって十代の頃には「キモい」とか「めっさ」とか新語を操っていたはずだが、今の新語とは相当違う。

そして著者の言うように「大人の職種」によってその「受け入れ姿勢の硬直度」が違うようだ。
中年以上の人たちが、無理に若者ことばを駆使しようとするのは見苦しい一面があるけれど、今の若者がリアルタイムで使うその言葉には「時代をそのまま写すエッセンス」があると思う。

「ウザっ」とか「やばい」とか。

ことばの包容力の狭まりは老化現象の始まりといえる。

正しい文法は心がけつつ、若者言葉もどんどん理解していきたいと思う。
やっぱり新語って面白いもの。

新語受け入れ、心の余裕反映

2016/8/21付

 ことばの研究者はときに非難される。乱れたことばが世に広がっているのに、弁護するからという理由である。しかし、ことばの乱れは、見方を変えれば新しい言い方の発生だ。研究者としては中立の立場で客観的に説明したくなる。

 新しい言い方は、使わない人には不愉快だろう。しかし言語の使用能力よりも理解能力は大きい。自分で使わなくとも、聞いて理解できるし、許容できるはずだ。

 終戦後の話である。戦災孤児が収容施設の近くの畑のトマトを盗んだ。農家の主人が怒って施設にどなりこもうとしたら、奥さんがとめた。「おなかがすいているのだろう。かわいそうだ。トマトの植え付けを増やして、施設の子の分も作ろう」。こう言って、多く作ったそうだ。

 トマトを盗むのは悪いことだし、迷惑だ。しかし事情を考えて大目に見て、とらえ方を変えれば、心に余裕ができる。

 ことばでも同じである。新しい言い方を使う人の立場を考えて許せれば、大らかに、心豊かに過ごせる。ことばの理解能力・許容範囲を増やすのは無料だから、経済的である。施設のそばの農家と違って、土地が広くなくともいい。広い心はただで持てる。

 ことばに詳しい人、うるさい人が世にいる。ことばの正しさ意識は、人によって違う。どれほど受け入れるかは個人差が大きいが、文化庁やマスコミの世論調査を分析すると、一定の傾向が見える。

 職種でいうと、事務系はことば全体に厳格である。接客系は敬語に敏感だが、労務系はあまり関心を示さない。その背景には、職種によることばの使い方の違いがある。事務系は読んだり書いたりするのが主な仕事で、接客系は人と話すのが大事な仕事、労務系は読み書きや話がそれほど必要ない仕事である。使うことばの量と質によって意識が違うのだ。

 一方、新語・流行語・外来語などを受け入れるかについては、年齢差が大きく、高年層ほど受容しない。ことばの包容力の狭まりは老化現象の始まりといえる。

 ことばの研究者は、使う人の立場を理解して、受け入れる能力がある。若々しい、やさしい心の持ち主なのだと言いたいが……。無理か……。

言語学者