藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

こちらに来たシン・ゴジラ。

クリエイターとか芸術家というカテゴリーに潜んでいれば永遠に安住できたはずの糸井さんが、表の世界に殴り込み。
ファイター精神としてはアントニオ猪木そこのけだ。

殴り込み、というよりは「ひらりと舞い降りた」感じだろうか。
結構「表の市場の人たち」は慌てていたと思う。
「ほぼ日の収益性は…」とか「初値のPERは高めで…」とか。
でも多分、そういうことじゃなさそうだ。
だから「殴り込み」なのだけれど、あまりそれに気付いている人は多くはないようだ。

そして、その「こっち側に降り立った糸井さん」がこの世界を見てみる景色。

ぼく自身も、いつだって「せまい世界」の住民だと思う。
 だけれど、「せまい世界」の居心地よさと同時に、
 その硬直しやすさと、息苦しさについて、
 いつでも感じていなきゃいけないなぁと思ってきた。
 「開こう」であるとか「風を入れよう」ということが、
 どれだけ大事なことか、忘れちゃならねぇと思っている。
 田舎芝居の座長は、小屋の換気が大きな仕事だよ。

鮮烈な風刺とも。
糸井さんにとっては。
こっちの世界は「田舎芝居」なのだ。
というか当たり前に田舎芝居だと思う。
それを「ここしかない舞台だ」と皆が言うからおかしくなる。

どんな世界も「ある種の舞台」でしかない。
その舞台が終わったらガラリと「次の演台」へと移り変わるのだ。

諸行無常
「この世が全てだ」とは思わないほうがよさそうだ。

こちらの世界に降り立った糸井重里って、シン・ゴジラにどこか似ている。

怖いぞぉ。

・どんな人でも、たいていは「せまい世界」にいる。
 ほんとうは、世界というのは無限に広くて、
 そんな広さはとうてい把握できるわけもないので、
 業界だとか、地元だとか親戚だとか、趣味の世界だとか、
 じぶんの生きる範囲をなんとなく決めて、
 そこを中心にして、「世界」だと決めているのだと思う。

「せまい世界」には、そこなりの秩序だとか規則がある。
 そして、知らず知らずのうちに
 「偉さの階層」とか「上下関係」というものができる。
 人の集団ができていくときには、だいたい、
 そんなふうなパターンがあるものだから、
 それは、自然な流れというものなのだろうとも思う。
 だから、ここらへんまでは、文句を言うつもりもない。

その先に、も少し「知性」を、と考えるのだ。
 まず、じぶんたちが「せまい世界」にいるということ。
 つまり、ほんとは、世界というものはもっと広くて、
 その広いところで生きるのはむつかしいから、
 当面の適当な居心地を優先して、
 「せまい世界」にいるんだと、知っていたいものだ。
 それこそ業界だとか、地元だとか、趣味の世界だとかは、
 小さな一部分にしかすぎない「せまい世界」なんだと、
 こころに留めておかなくてはいけないと思うのだ。

そして、その「せまい世界」での親分だの子分だの、
 上だの下だの、たいしたものだのというのも、
 広い世界から見たらなんでもない屁みたいなものだ。
 そんなことも、いつも覚えておかなきゃいけないだろう。
 「井の中の蛙」がふんぞり返っていたり、
 「コップの中の嵐」を世界の大問題のつもりでいたら、
 「せまい世界」は、貧しく惨めになっていくだけだろう。

ぼく自身も、いつだって「せまい世界」の住民だと思う。
 だけれど、「せまい世界」の居心地よさと同時に、
 その硬直しやすさと、息苦しさについて、
 いつでも感じていなきゃいけないなぁと思ってきた。
 「開こう」であるとか「風を入れよう」ということが、
 どれだけ大事なことか、忘れちゃならねぇと思っている。
 田舎芝居の座長は、小屋の換気が大きな仕事だよ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「せまい世界」に馴れきればこころのせまさを得られるね。