藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

老獪という技術。

多分、縄文時代も、平安時代鎌倉時代も、戦国時代だって、そして江戸や明治でも「その時代なり」のストレスはあったろう。
同様に、物質的にははるかに豊かなはずの「平成」だってストレスはそれなりにちっともなくなっていない。

多分、人は時代に合わせて「それなり」にいろんな重圧を「それなりに」感じるようにできている。
今の自分の悩みは、「かつて」に比べればずい分とヌルいだろうことは知っているが、「それ」が今の自分のストレスなのは間違いがない。

それはともかく。

この歳にして、これまで幼少期から、義務教育、学生時代、社会人と進んできて感じたストレスは何百とある。
そもそも家族であれ友人であれ、赤の他人であれ「自分以外の人」と触れ合えばストレスは簡単に生じる。

社会にいる限り「それ」からは逃れられない、とも思う。

では、それとどう付き合うのか。

自分の経験談からだけ話す。
毎日いろんなストレスとか、プレッシャーがある。
それにどう対処するか。

まず、待つ。
じっと耐える。
それも永遠ではない。

数日。
2-3日。
長くても一週間。
そしてその間は「1日に数十回はそのことを考えてみる」。

そうすると、精神的に慣れてくる。
解決は見えなくても、気持ちが落ち着いてくるのだ。

この「落ち着き」というのが何事にも非常に重要だ。
というか「落ち着いて」いられれば、大抵の困難はうまく解決できるとさえ思う。

人はそれほど"重圧"に弱いのだろう。
だから「重圧のかかった自分」を不用意に追い詰めてはいけない。

じっと。
じーっと数日待ってみるだけで、腹の底に沈殿するように「思考の核」みたいなものが出来上がってくる。

そんなことが、歳をとってくると肌で感じられるようになる。
「老獪」というのはそういうことなのかもしれない。