藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ネットが政治を変える。

*[次の世代に]戦禍の記憶から
日本も欧州各国もどこもどこも。
「独裁と民主化」を繰り返しながら現在に至る。
ひどい独裁国家は(新興国には)今もあるし、かといってヘナヘナで崩れかけの先進国もある。
第三次産業革命」と言われる今の時代が、最も変革するテーマはひょっとして"政治"ではないだろうか。
司法とか立法とか、行政とか、経済指標とか、「いろんなテーマが一辺には見渡せなかった」のが「これまでの世界」だと思う。
だから(今は)いろんな人たちが、本当にいろんな立場で発言する。
すると当然議論は割れる。
収拾もつかない。
誰も「全体」は見渡せていないので、混乱するのは実に当然だったと思う。
国の維持に必要な項目とコストは?
税金をどこに使う?
「百年後の日本」をみんなでイメージする?
これまでは「これからのビジョン」とか「個別の制度・政策の是非」なんかをみんなで諮ることはできなかった。
でもこれからは違う。
憲法改正なんて事だけでなく、いろんなテーマについて「いちいちみんなの意見が聞ける」時代になるだろう。
 
何年に一度の選挙、ということではなく「毎日が国民の考える日」になればいい。
ITは選挙のあり方や政策の決定プロセスを根本的に変えるだろう。
多くの人が政治に積極的に参加する時代になるのではないだろうか。
 
 
スペイン内戦 「ゲルニカ」が継ぐ戦禍の記憶
2019年1月20日 17:00
 
世界有数の観光地やグルメで知られるスペインは、世界でトップクラスの観光立国。年間8000万人を超える観光客が訪れます。
現代史を巡る旅はバルセロナからスタートです。建築家アントニ・ガウディによる世界遺産サグラダ・ファミリア(聖家族教会)」を訪れました。見上げると、随所に聖書の物語が刻まれ、描かれていることがわかります。読み書きができない当時の人々への布教のメディアを担ってきたのです。
1882年の建設から1世紀を超えても未完成です。その理由は1930年代のスペイン内戦で、設計図が燃えてしまったからだといわれています。
当時、スペインは新しく誕生した共和国政府と旧体制への復活を求める勢力とが対立します。フランシスコ・フランコ将軍が反乱軍を率い、ドイツやイタリアが支援したのです。内戦の死者は30万~40万人とみられます。反乱軍が勝ち、長い独裁政権が続きます。
スペインは歴史的に複数の国々が併合されてできました。バルセロナのあるカタルーニャ地方は、共和国支持者が多く、反乱軍による容赦ない攻撃を受けた激戦地のひとつでした。1000カ所もの防空壕(ごう)を掘る工事には、多くの女性や幼い子どもたちが動員された記録が残っています。
独立運動につながる歴史
 
ウリオル・ドメネクさん(95歳)の証言です。「15歳のとき、イタリア軍の爆撃で家を失い、多くの人々が亡くなりました。独裁政権時代にはカタルーニャの言葉すら禁じられ、食料などは配給で、苦しい生活でした。フランコは共和国派の人々を徹底的につぶしたかったのでしょう」
2017年、州政府が行った住民投票では90%が独立に賛成しました。ドメネクさんも独立を強く支持していました。住民の独立支持の意識の背景にはスペインの成り立ちや過去の対立がかかわっています。
内戦のさなかの1937年4月26日に大きな事件が起きました。ドイツ軍が人口5000人ほどの町ゲルニカを無差別爆撃します。人々が集まる市場を狙ったとみられ、大勢の大人やこどもが殺されたのです。当時の新聞を見ると、建物は壊滅的な被害を受けていたことがわかります。
スペイン政府からパリ万博への出品依頼があり、作品づくりに取り掛かっていたパブロ・ピカソは、フランスで祖国の惨状を知りました。昼夜を問わず、およそ1カ月で「ゲルニカ」を描いたといわれています。
マドリードにある美術館「ソフィア王妃芸術センター」で、ゲルニカを間近に見ました。世界から360万人が訪れるそうです。モノクロで描かれた「亡くなったわが子を抱える母親の叫び」や「傷ついて倒れた人々の苦しみ」に圧倒され、言葉を失いました。
地元の専門家、マドリードコンプルテンセ大学のドロレス・ヒメネス教授に解説を聞きました。
祖国を案じていたピカソ
Oil on canvas,3.493メートル×7.766メートル.(C)2019-Succession Pablo Picasso-BCF(JAPAN)=テレビ東京提供
槍(やり)が刺さった馬が描かれています。これは何も罪を犯していないのに傷を負った町の人々を表しています。
絵の上部には、ランプにも、太陽のようにも見えるかたちがあります。これは、「神の目」「電球」「爆弾」とも推測できます。人は何かアイデアがひらめいたとき、電球のマークを描くことがあるでしょう。人間のひらめきからつくられた道具は、夜を明るくするけれど、破壊もするという皮肉にも受け取れるのです。
時代が移り、国連本部で奇妙な出来事がありました。2003年2月、ピカソ監修によって織られたタペストリー「ゲルニカ」が青いカバーに覆われてしまったのです。「誰が、何のために隠したのか」
掲げられていた場所は国連大使らが記者の質問を受けるエリアでした。「イラク大量破壊兵器を隠し持っている」という疑惑から、アメリカがイラクを攻撃しようとしていたときでした。戦争の被害を連想させる「ゲルニカ」の存在を消し去りたかった人物か組織があったのでしょう。
1970年代、スペインに大きな転機が訪れます。75年に終身国家元首フランコが亡くなったのです。民主的な選挙を基に新しい国づくりが始まりました。フアン・カルロス1世国王は「君臨すれども統治せず」を貫き、民主化を支援しました。
ピカソは73年に亡くなるまで祖国の未来を案じていました。当時、「ゲルニカ」はアメリカの美術館に展示されていて、「スペインが民主的な国になったときに返還するように」と言い残したといわれます。やがて81年、本来のふるさとであるスペインへ「ゲルニカ」が帰ることになったのです。
多様性を重んじる人々
スペインが民族の対立を乗り越えようとしている象徴的な出来事がありました。2007年、「歴史の記憶法」が成立し、内戦や独裁政権時代に弾圧された人々の名誉を回復しようという活動が始まっています。
「歴史記憶回復協会」は11万人余りの身元確認を進めています。協会のボニファシオ・サンチェスさんは「スペインはカンボジアの次に内戦による行方不明者の多い国。活動を続け、家族のもとに遺骨を返したい」といいます。
スペインが多様性や民主主義を重んじる背景には、内戦や独裁政権に対する深い反省があります。政府の新しい閣僚が発表された際、17人のうち11人が女性でした。人々がいまも歴史と向き合い、憎しみを越えて、開かれた国づくりを進めていこうという決意の表れなのでしょう。