藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

東西ドイツに学ぶ。

池上さんの講義録より。
それにしてもご指摘よろしく、ベルリンの壁は「東西ドイツの国境を分割していた」と思っていた私。
"東ドイツの中に浮かんだ島"が西ドイツだとはついぞ知らなかった。
そういえば「戦場のピアニスト」でもそんなシーンがあったっけ。
(さらに日本も中国・四国地方ニュージーランドと豪州が占領していたって。これも知らずにいた)

 国家の発展を決める大きな要因は、経済体制や政治体制なのだということが、歴史から学べるのではないでしょうか。

東西ドイツが分割統治され、資本主義と共産主義で別々に育てられたくだりは、否応なく説得性が高い。

 東西ドイツに分割されたことによって、深刻になった問題は経済格差です。

 米国など西側諸国には、西ドイツの戦後復興に協力し、西ドイツを民主的に経済発展させる方針を採りました。というのも、第1次大戦後、戦争を引き起こしたドイツに対して莫大な賠償金を課して苦しめたことが、結果的にナチスドイツの台頭を許し、第2次大戦の引き金になったという反省があったからです。

 これに対し東ドイツでは、社会主義経済体制の下で人々はいわば公務員となり、実績を上げなくても職を失うことはなく、一定水準の給料も得ることができました。農地も集団農場になりました。その結果、人々の競争がなくなり、開発意欲も薄れ、生産性がどんどん落ちていったのです。

今の日本は政権の混迷が続いているけれど、今一度歴史から学べることもあるし、また過去を知らずに浮ついた議論をしているのが今の50歳以下の若手でもあると思う。
税制や社会保障、産業の保護など「あるべき国の姿」を考える上で歴史のおさらいは必要ではないだろうか。
急がば回れか。

ベルリンの壁が崩れ、冷戦が終わった
戦後世界のかたち(3) 東工大講義録から

2014/2/24 3:30
ニュースソース
日本経済新聞 電子版

 今回は冷戦の象徴ともいうべき東西ドイツの分割と、ベルリンの壁を取り上げます。20世紀に2度の世界大戦の引き金を引いたドイツは、今は欧州連合(EU)のけん引役を担っています。そのリーダーは2005年(平成17年)にドイツ初の女性首相となったアンゲラ・メルケル氏です。

旧東ドイツ育ちの女性首相

 メルケル氏は旧西ドイツで生まれ、旧東ドイツで育ちました。物理学を専攻した科学者でもあります。日本では最近、理科系出身の女性たちは“理系女子(リケジョ)”と呼ばれ、注目を集めていますが、メルケル氏はまさにリケジョでもあるのです。

 ドイツが統一しなければ、メルケル氏は首相にはならなかったでしょう。運命とは不思議なものです。政治には関わることなく研究活動にあたってきたのですが、ベルリンの壁が崩れ、民主化運動が高まる中で政治との接点ができました。


保守と野党の大連立を背景に、メルケル首相は第3次政権を発足させた=AP

 昨年の連邦議会選挙を経て、保守系キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と最大野党の社会民主党(SPD)が大連立に合意し、CDU党首であるメルケル氏の第3次政権が発足しました。メルケル氏は絶大な人気があります。ドイツを率い、ギリシャキプロスなどの財政危機に端を発したユーロ危機に手腕を発揮し、EUを救ってきたところに、ドイツ統一の成果があるように思います。

 東西ドイツが一緒になることに対して、実は欧州では恐怖感があったことも事実です。第1次大戦も第2次大戦もドイツが引き起こした歴史があるからです。

 東と西に2つに分割されているから、力が弱くて戦争にはならなかった。ドイツが一緒になってしまったら、ものすごい力を持つようになって、また欧州を支配するのではないかという危機感を持つ人々が少なからずいるのです。統一へ向けて動き出そうとした時、フランスのある政治家はこういう発言をしました。「私はドイツが大好きだ。大好きなものは2つあった方がいいのだ」。ドイツの統一を批判して、陰口をたたいたのです。いかにもフランス的な発言です。

 メルケル首相は長期政権になることも予想され、EUでの発言力がさらに大きくなるでしょう。EUのさらなる統合に向け、そのリーダーシップに期待が集まっていることは間違いないでしょう。では、第2次大戦後のドイツの足跡をたどってみましょう。

 ナチスに率いられてきたドイツが敗北し、日本と同じように連合国軍に占領されました。中心となったのは米国、英国、フランス、そしてソ連の4カ国でした。


いけがみ・あきら ジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。主な著書に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。63歳。

 日本は米国だけが占領していたと認識している人が意外に多いのですが、そうではありません。例えば英国、オーストラリア、ニュージーランドが中国地方と四国地方を、米国は中国地方を除く本州と九州、北海道を占領していました。基本的には資本主義、民主主義の国々が中心だったので、戦後にドイツのように半分に分割されるようなことはありませんでした。

 ちなみに、北海道の北半分をソ連が占領する案をソ連が出していました。結局、米国がはねのけました。もし、ソ連が北海道を占領していたら、北海道が南北に分断され、軍事境界線ができていたかもしれません。

■東はソ連、西は米英仏が占領

 ドイツの場合は事情が異なりました。ナチスドイツの欧州占領に対し、連合国軍は反撃する過程でドイツの東側からはソ連軍が、西側からは米軍や英国軍が攻撃していきました。ドイツを流れるエルベ川を境に、東側をソ連が、西側を米国、英国、フランスの4カ国が分割占領することになったからです。

 占領直後から、東西ドイツは別々の道を歩み始めていました。ソ連はドイツの東側を占領後、土地改革に乗り出しました。100ヘクタール以上の土地をすべて国有化したのです。重工業など基幹産業も国有化し、次々とソ連式の支配を強めていきました。

 一方、西側では、日本の都道府県にあたるような州政府を組織させて、その代表を集めて新しい憲法を作らせました。ちょうど米国型の国家体制のように、非常に権限の強い州の集合体として国家を築いたのです。

 東ドイツ側にあるベルリン市でも4カ国による共同管理が始まりました。そこで、ある事件が起きました。ソ連は東ベルリン側で、ナチスドイツ時代の印刷機を使って紙幣を大量に印刷し、占領に必要な紙幣を流通させようとしたのに対して、米国、英国、フランスは1948年(昭和23年)、西ベルリンで独自の通貨を発行し始めたのです。これにソ連が猛反発し、西ベルリンを封鎖しました。市民を人質に取って、通貨の発行をやめさせようと圧力をかけたのです。

 西ベルリンはドイツの西側と往来ができるように、鉄道と無料の高速道路が通っていました。途中で降りることはできませんでしたが、交通手段はありました。

 無料の高速道路はアウトバーンと呼ばれます。ナチスドイツが第1次大戦後の混乱から国内経済を復活させるために、ドイツ全土で繰り広げた公共事業でした。

 当時、西ベルリンには225万人の市民がいました。そこで米国は、市民に食料や物資を送り届けるために、「空の架け橋作戦」を実行しました。西ベルリンには空港が2つありました。さらに臨時の空港も建設。ドイツの西側にある3つの空港から輸送機を飛ばし続け、生活物資を届ける一大作戦を決行したのです。なんと最盛期には、輸送機が1分おきに飛び立っていったそうです。飛行回数は延べ27万7000回にも上ったという記録があります。

 米国は「何としても西ベルリンの市民を守るぞ」と行動で示したのです。結局、ソ連は陸路を封鎖しても成果を得られず、1949年(昭和24年)5月に解除しました。封鎖はおよそ1年続いたのです。

■東西それぞれが軍事組織を設立

 1949年(昭和24年)に東側ではドイツ民主共和国が成立し、西側ではドイツ連邦共和国が成立しました。ドイツが国家として分割され、東西冷戦を巡る緊張は欧州地域に波及していきました。

 同年には西欧諸国と米国、カナダが参加して北大西洋条約機構NATO)が設立されました。いわゆる集団的自衛権に基づいて作られた軍事組織です。

 西ドイツをはじめ西側諸国にしてみれば、「ソ連あるいは東ドイツポーランドチェコスロバキアといった東側の国々が攻めてきた時に、自力ではとても守り切れないだろう。みんなで国家を守ろうではないか」と危機感を強めていたわけです。

 1955年(昭和30年)にはワルシャワ条約機構が設立されました。ソ連や東欧の国々も「西ドイツや米国、フランスが攻めてきたらどうなる。みんなで守ろう」と結束しました。実態はソ連軍中心の軍事組織でした。

 冷戦時代、東西ドイツを巡る象徴が「ベルリンの壁」です。ベルリンの壁は、東西ドイツの国境を分断していた壁と勘違いしている人が意外にいます。当時、ぽつんと東ドイツの孤島のように浮かんでいた都市が西ベルリンでした。西ベルリンをぐるりと取り巻いていた壁がベルリンの壁でした。

 東ドイツソ連式の社会主義体制となりました。みるみる個人の自由が失われ、土地を取り上げられる事態になりました。すると東側のドイツ民主共和国から西側のドイツ連邦共和国へ多くの人々が逃げ出ていったのです。ベルリンの壁ができるまでの間、358万人が西側に逃亡したとみられています。


2011年8月13日、ベルリン。壁の構築着手から50年に当たるこの日、かつてこの壁を乗り越えようとして射殺された市民を追悼する式典が開かれた=ロイター

 事態を放置しておくと、東ドイツは国家として成り立たなくなる恐れがありました。危機感を強めた東ドイツ政府は、西ベルリンへ入れないように、壁を建設し始めたのです。1961年(昭和36年)のことです。

■小さな十字架は落命の跡

 壁の総延長は155キロにもおよびました。東側では壁からおよそ100メートルの幅の緩衝地帯を設けました。その一部を空き地にして砂地をつくり、逃げようとする人の足跡が付いて、脱出を発見しやすくしたというのです。

 ベルリンの壁が崩壊した後、壁のあった場所のあちこちに、小さな十字架のマークが付いています。それは壁を越えようとして射殺された人の場所です。壁ができた後、5000人以上の東ベルリン市民が壁を越えて脱出しているのですが、100人以上が犠牲になったとみられています。

 1963年(昭和38年)6月、当時のケネディ米大統領は西ベルリンを訪問し、ベルリンの壁の前で演説をしました。演説の一部をご紹介します。

 「その人がどこに住んでいようと、自由を愛するすべての人びとはベルリン市民である。ゆえに私は誇りを持って言う。Ich bin ein Berliner.(私も一ベルリン市民だ)」

 演説は英語でしたが、最後の一説だけドイツ語で発言しました。

 極めてレトリックですね。「ベルリン市民は自由を愛している。ということは、自由を愛する国民は、みんなベルリン市民と心が同じなのだ。だから私もベルリン市民と共にいる」。こう言えばいいですね。論理的ではないけれども、「私もまた一人のベルリン市民だ」というメッセージにしたことが、人々の心を打ったわけです。実際、西ベルリン市民は熱狂しました。

■広がった東西の経済格差

 東西ドイツに分割されたことによって、深刻になった問題は経済格差です。

 米国など西側諸国には、西ドイツの戦後復興に協力し、西ドイツを民主的に経済発展させる方針を採りました。というのも、第1次大戦後、戦争を引き起こしたドイツに対して莫大な賠償金を課して苦しめたことが、結果的にナチスドイツの台頭を許し、第2次大戦の引き金になったという反省があったからです。

 これに対し東ドイツでは、社会主義経済体制の下で人々はいわば公務員となり、実績を上げなくても職を失うことはなく、一定水準の給料も得ることができました。農地も集団農場になりました。その結果、人々の競争がなくなり、開発意欲も薄れ、生産性がどんどん落ちていったのです。


2013年9月、フランクフルトで開かれた国際自動車ショーでプラグインハイブリッドのコンセプトカーを発表したBMWのライトホファー社長。旧西ドイツでは世界をリードする有名自動車企業が育った

 象徴的な事例が自動車産業です。ドイツが東西に分割された時、自動車工場も東と西に分割されて、別々の道を歩むことになったのです。西ドイツで発展を遂げたメルセデス・ベンツBMWあるいはアウディなど有名高級車の姿をみれば一目瞭然でしょう。今では世界の自動車産業をリードする企業ばかりです。これに対し、東ドイツ自動車産業は進歩がありませんでした。それでも、人々はあこがれの国民車「トラバント」を手に入れるために、年収の何年分かのお金を用意し、何年も待ちました。日本でいうと軽自動車ぐらいの小さなかわいらしい車でした。

 こんなエピソードがあります。ベルリンの壁が崩壊後、大勢の市民が東ベルリンから西ベルリンにトラバントに乗って訪れました。すると西ベルリンは大気汚染に見舞われました。西側諸国のような厳しい排出ガス規制に対応していなかったので、黒煙をあげて走っていたのです。また内装の資材の一部には段ボール紙も使われていました。日本では信じられないことです。

 壁が崩れた後、多くの東ベルリン市民が西ベルリンを訪問しました。この人たちに、西ドイツ側では、とりあえず西ドイツの100マルク紙幣を一人一人に贈りました。その100マルク紙幣を受け取った東ベルリン市民が、まず向かったのがバナナの屋台だったそうです。人々は「バナナという高級品を一度食べてみたかった」というのです。

 東西ドイツが統合された時、ドイツ経済はどん底に落ちました。当時の西ドイツは世界トップレベルの経済水準で、東ドイツ社会主義圏の中ではトップレベルの経済水準だったはずでした。ところが一緒になったら、西ドイツ経済が地盤沈下する事態に陥ったのです。この事実をつきつけられ、韓国は北朝鮮との統合に対する意欲が薄れたといいます。

 国家の発展を決める大きな要因は、経済体制や政治体制なのだということが、歴史から学べるのではないでしょうか。

 ベルリンの壁が崩れたのは1989年(平成元年)11月のこと。ソ連社会主義陣営にあった東欧諸国は経済状況が悪化し、国民の生活は疲弊し、国家の立て直しを迫られていました。

 同じ年の5月には、ハンガリーが隣国のオーストリアとの国境に張り巡らせていた鉄条網を撤去していました。民主化路線を歩み始めたハンガリーの首相が国境を視察した際、こんな趣旨の発言をしたといいます。

 「この鉄条網はオーストリアからの侵略を防ぐものではないだろう。ハンガリー国民が逃げていかないように作られているものだろう。自国民が逃げないようにするものを作るなどというのは、恥ずべきことである」

■壁が崩れた意外なきっかけ


1989年11月10日、「ベルリンの壁」に上って国境開放を喜ぶ東西ドイツ市民。この翌年にドイツは統一を果たした=AP

 東ドイツの国民は、ハンガリーオーストリアの間の国境を自由に行き来できるようになったことに注目しました。東ドイツからハンガリーには直接行けなかったので、東ドイツから隣国のチェコスロバキア(現在はチェコスロバキアに分離)に入り、そこからハンガリーを経由し、オーストリアの西ドイツ大使館に駆け込んで亡命申請しました。一時はハンガリーに20万人の東ドイツ国民が滞在したといわれています。

 東ドイツは、ハンガリーに抗議しました。「オーストリアに出国を認めるようなことはやめてほしい」と主張したのです。しかし、今度はハンガリーに設けられた西ドイツ大使館に東ドイツ国民が駆け込みました。東ドイツは、国民がハンガリーに行かないように、チェコスロバキアとの間の観光ビザ免除協定を破棄しました。東ドイツ国民は、西ドイツに逃げる道を断たれ、国内で反政府運動を繰り広げるようになりました。

 そこで東ドイツは、自由にほかの国に行ける出国ビザを申請できるようにするという発表を予定していました。ソ連、東欧諸国では、出国の許可が必要だったのです。

 政府の広報担当は、担当になったばかりのドイツ社会主義統一党の政治局員でした。広報に慣れていなかったことが、歴史的な事件の始まりでした。「明日から出国ビザを申請できます。その許可が得られたら、出国できる仕組みにしました」と発表するはずが、間違えて「出国したい人はいつでも出国できます」と発表してしまいました。

 これを聞いた記者たちが、「いつから?」と質問したら、「今すぐです」と発言してしまったというのです。

 東ドイツの人々は当初、この発表を信じていなかったようです。夜になって西ドイツのテレビ局が「東ドイツの国民、あるいは東ベルリン市民は自由に西ベルリンや西ドイツに行くことができるようになった」と発表すると、途端に市民が家を出て、ベルリンの壁に向かい始めたといいます。

 実は人々は政府の発表を信用せず、西ドイツのテレビを信用していたのです。東ドイツの人々はいつの間にか電波受信用の変換器を入手し、衛星放送などを通じて西ドイツのテレビ放送を見ていたのです。「電波が国境を越えた」と呼ばれました。これによって民主化が広がったともいわれています。


1999年6月12日、旧ユーゴスラビアコソボ地区に向かうNATO軍。NATOは欧州の平和や安全を守るという役割から守備範囲を広げつつある=AP

 東西冷戦が終わり、ソ連が崩壊してロシアになり、東欧の国々が次々と民主化され、ワルシャワ条約機構も解体されました。そうすると、ヨーロッパには集団的自衛権を行使できる組織はNATOだけになり、東欧諸国がNATOに参加し始めたのです。

 極めて皮肉なことですが、東西冷戦時代につくられたNATOの軍隊は戦争をすることはもちろん、紛争に直面して敵に発砲することがありませんでした。ところが東西冷戦が終わったあと、NATO軍は戦争をするようになります。旧ユーゴスラビアが崩壊し、構成していた地域が次々に国家として独立したことがきっかけでした。スロベニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナマケドニアが独立すると、このうちボスニア・ヘルツェゴビナが内戦状態になります。ボスニアヘルツェゴビナの独立を許さないセルビアに対して、NATO軍が攻撃せざるを得なくなったからです。

 その後、アラブの春で、リビアで内戦状態になった時もNATO軍が出動し、リビアカダフィ政権、政府軍を空爆する事態となりました。NATO軍は組織を大きくしながら、欧州全体の平和、安全を守るという役割から守備範囲を広げつつあるのです。

■ベルリン市民が贈った返礼の言葉

 東ドイツが存続できなくなり、1990年(平成2年)10月3日、西ドイツが東ドイツ編入し、統一ドイツが誕生しました。やがて首都は西ドイツの首都だったボンから、東ドイツの首都でもあったベルリンへと移りました。

 2001年(平成13年)、ニューヨークなどで米同時テロが起きて、何千人もの人々が亡くなりました。この時、世界各地でテロの犠牲者を追悼する集会が開かれました。

 その時、ベルリンに見覚えのあるキーワードを記したプラカードが登場しました。そこに記されていたのは「私もまたニューヨーク市民である」という言葉でした。ベルリン市民は、「ケネディ大統領のメッセージ」を思い出し、自分たちが励まされたお礼を贈ったのです。

 ベルリンからニューヨークへの返礼のメッセージ。

 現代史を学んでおくと、こんな一コマに心が熱くなるものです。