藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

リーダーの仕事

*[ウェブ進化論]テーマ力。
日経、宮内オリックス会長のコラムより。
かくいう私も、数年前までは市場経済こそ全てに勝ると考えていました。けれども、いまは市場経済を否定はしないけれども、格差や環境といった問題を考えると市場経済だけでは万能ではないと考えるようになりました。そうしたイシューの解決を市場経済に求めても「無い物ねだり」ではないかと思います。昔の私からすると相当「変節」しているわけです。
コラムでは議論の大切さや、互いの主張の受け入れの重要性について触れられている。
日本の財政政策の頑なさも指摘されているが、改めて「問題の整理」ができていないのが今の政治の最大の問題なのだと思った。
国会議員が数百名で「あらゆる問題について話をしようとする」からいつまでたっても収拾がつかず、ズルズルと時代が過ぎてゆく。
失われた三十年はまだそのまま続いていると感じる人は多いだろう。
むしろ桜の会がどうの、ともはや論点を絞ることから逃げているのかと思って市井の人は皆呆れている。
「シングルイシューはけしからん」という人もいるけれどゼロよりはよほどいい。
リーダーが任期中に三つくらいの大テーマを掲げ、それを国民が都度判断するような方式がないと今のままではないだろうか。
次のリーダーには「国の政治戦略」を考えられる人を選びたいと思っている。
 
(長文ですが引いておきます)
主張「変節」のススメ、社会の変化に対応を
今回は、アタマを柔らかくするにはどうしたらよいのか、という少し妙なテーマについて思うことを記したいと思います。

 
宮内義彦(みやうち・よしひこ) オリックスのシニア・チェアマン。 1935年神戸市生まれ。関西学院大商学部卒。米ワシントン大経営学修士(MBA)。
昔話になりますが、私が委員長や議長を務めた政府の規制改革会議では、さまざまな社会的テーマ(課題)を取り上げました。規制緩和を実現するためには、各テーマに絡む業界団体やいわゆる族議員と対峙しなければいけませんでした。国会議員の先生方と議論をすると、規制改革会議の主張が十分筋が通っていることが多かったのですが、「なるほど。自分の考えを変えなければいけない」などと思ってくれる先生はほとんどいませんでした。結局は力の勝負になります。
 
それでも「この先生はなかなかいいお人柄だな」と感じたことも少なくありません。あくまで個別テーマについての意見が合わなかっただけで、人として憎いわけではないからです。ところが日本人は、個別テーマであっても意見が合わないと人格を全て否定されたと感じ「もう相手の顔も見たくない」という人が少なくないようです。「これはこれ」という風には考えずテーマへの賛否と人格が固く結びついてしまうのですね。例えば規制改革でぶつかりあった先生の中には、いまだに私を見つけると顔をそらす方もいます。政治家は利益団体の代表でもあるので変わりづらいのかもしれませんが、本当は政治家こそ社会のために考えを柔軟に変えてほしいものです。
 
海外の方は相当違うように思います。彼らにとって社会的な課題は一個のテーマであり、議論が終わればノーサイドです。この後一緒に一杯飲もうかという話にもなります。政治信条や信仰を否定されたのであれば、人格を全て否定されたと捉えるのも分からなくはありません。しかし社会的な個々の課題は時代と共に変わっていき、技術も進歩していくので、それに合わせて自分の考えが変わってきても全くおかしなことではありません。社会のめまぐるしい変化に合わせて、むしろ変えるべきだと思います。日本人は、社会的課題を人生観や政治的信条、あるいは信仰と同じレベルで捉える傾向があり、アタマが固いというかフレキシビリティー(柔軟性)に乏しいと感じます。なぜなのでしょうか。
 

ディベートは民主主義の根幹

以前からひとつの要因として考えているのは、日本の教育のあり方です。例えば、米国などの学校ではディベートを訓練するために、相反する主張を取り上げ、生徒は組を入れ替えてそれぞれに主張させるトレーニングなどをします。すると理屈が鍛えられますし、相手の主張もよく分かり、たとえ言い負かされてもそんなにこだわりません。

 
日本の教育でもディベートを通じて妥協点を見いだす訓練が求められる
欧米でこうした教育が盛んなのは、やはり民主主義の神髄が受け継がれているからだと思うのです。それは、妥協点を見いだすという作業をする場合に欠かせないのです。言い負かした人間の考えだけを取り上げるのではなく、互いの意見を取り入れるという考えです。主張が相反するケースは、どちらの主張も半分くらい正しいことが少なくありません。いずれかの主張を全面採用するのではなく、折り合いを見つけられる思考を鍛える。これが成熟した民主主義のあり方だと思います。少数政党が乱立し多民族が共存する欧州では、特にこうした傾向が顕著です。蛇足ですが、トランプ米大統領はこうした伝統とは少し違う方ではないかと思いますね。米国の民主主義も変化してきている表れかもしれません。
 
翻って日本という国は、世界の中でもものすごく均一な国民性を持つ国と言っていいでしょう。そのため平時には多くの人が一つの意見に集約されやすいのでしょうか。足元で変化が徐々に起きていても、これに徐々に合わせていこうとしない。ディベートにより妥協点を見つけるというよりも、変わるときは右から左に極端に流れていかざるを得ない傾向があります。幕末の攘夷から倒幕への流れもしかり、戦前の極端な軍国主義から戦後の平和主義への迎合もしかりです。少しずつ変化が起きて良い方向に改善するようなフレキシビリティーを、日本人は身につけるべきでしょう。常に現実を見て自分の考えを現実に合わせていくべきです。
 
社会現象について自らの考えに固執すると、非常におかしなことが起きます。例えばかつての社会党は、「自衛隊は認めない」と言っていたわけですが、村山連立政権が発足するとすぐに自衛隊は合憲だと認めるようになり、それまでは何だったのかと国民をあきれさせました。日本人は社会現象に対してはもう少し現実をよく見て、思考が凝り固まり動きのない社会をつくらないことです。
 

経済政策も柔軟な見直しを

こうした視点で昨今の日本の経済政策を見てみると、やはり柔軟性を失っていないかと心配になります。代表的な例が、異次元金融緩和でしょう。日銀が目標とする2%の物価上昇率を金融緩和では達成できないことはもはや明確になっています。であれば、別の方策を探さないといけないのではないでしょうか。
 
野村総合研究所リチャード・クー氏は「追われる国の経済学」という本で、金利を引き下げても資金需要を喚起できないという主張を展開しています。日本企業はかつてのバブル経済の崩壊に懲りてバランスシート(貸借対照表)を改善しようとしているため、銀行がお金を貸そうとしても借りない「バランスシート不況」にある。それなのに金利を一生懸命下げようとしている政策は間違いだと、クー氏は論じています。金利を下げれば需要が出てくるという前提が本当に正しいのか、これまでの経済政策が間違っているのではないかと疑ってかかる必要があるでしょう。
 
また財政政策を見ても、巨額な赤字の累積が深刻な事態になっていると叫ばれており、財政拡張に動きづらい状況になっています。これも前提条件を捉え直しても良いのではないかと思います。現代貨幣理論(MMT)のような新しい見方を柔軟に取り入れて、効率の良い財政支出を探る道もあると思うのです。
 
幸か不幸か日本の民間需要不足を補うのに必要な施策は山積しています。政治の役割はその必要性を認め、これを充足することにあるはずです。思えば消費税増税という民間需要を失わせる政策などは、もう一度考え直すべき施策だったのではないでしょうか。欧州では数十年前に提唱された間接税は、果たして格差是正や需要喚起が求められる現在の経済政策と整合性があるものだったのか。やはり柔軟な思考が無かったのかもしれません。

 
消費増税格差是正や需要喚起が求められる現在の経済政策と整合性があるものだったか……
民主主義が妥協点を見つける作業であることと同様に、経済政策も世の中の動きに応じて機敏に変化すべきです。何年間も断固として同じ政策を維持するのは少し変ですね。財政再建という方針も、かつては納得できる部分がありました。国が借金したら返さないといけない、それはそうだろうなと。しかし現実を見ると、別に返済しなくても何も不都合なことは起きていません。財政赤字が続いても何事も起こっていないばかりか国債の多くが日銀に還流しているのが昨今の状況です。統合政府として考えれば日本の財政は突出して悪い訳ではないとも言えるのです。それよりも日本社会が必要としている教育、インフラ、格差を何とかするために国の効果的な支出が必要ではないかと思います。社会経済が変化すれば、政策の前提条件が変わるのは当たり前です。しかし実態は硬直化した政策になってはいないか。もう一度アタマを空にし、足元の状況をじっくり見て経済政策を検証し直さないと、いつまでたっても状況は打開できません。
 

議論は思考をリフレッシュする手段

議論することの意味は、他人の考えを学び、自分の考えを改めるためにするものだと私は考えています。思考のリフレッシュですね。ところが大方の日本人は自分の考えを押しつけることが議論だと勘違いしている節があります。「私の考えが100%正しい」という前提で議論をしても衝突するだけで前に進むことはなく、単なる考えの押しつけ合いで終わってしまいます。
 
社会的課題への主張と人格を切り分けた実話として、個人的な体験をひとつ挙げましょう。富士ゼロックスの故小林陽太郎会長と私は、経済同友会の代表幹事と副代表幹事という関係で長い間お付き合いをさせていただきましたが、実は重要な主張で意見が一致したことがあまりないのです。小林さんが右と言ったら私は左という具合で、年がら年中、非常に肝心なことでも全く異なる意見を持ち議論をしていました。小林さんが経営効率よりも従業員や顧客といったステークホルダーを重視すべきだと言えば、私は企業経営の方向性は市場経済に委ねるべきで「冗談じゃない、そんなことでは日本経済がダメになる」と反論していました。往時の経済同友会のメンバーは私たちの議論を大いに楽しんだのではないでしょうか。しかし今思うと、こうした議論を通じてお互いの主張はよく理解できたし、あるべき解を見つけるのに大いに役立ったと共に、自分の思いも進化したことは確かです。こうした間柄でも小林さんとは、会議が済んだらノーサイドでした。なんと私に富士ゼロックス社外取締役の就任を依頼されたほどです。私もお引き受けし、富士ゼロックスでもいろんな議案に対して反対だと言っていました。そして一方で、家族ぐるみのお付き合いを続けさせていただくほど小林さんとは深い関係を結ぶことができました。小林さんは主張と人格を区別できる方でしたし、その点は私も同じだったと思います。自分と異なる意見でも、面白いと思えば採用する。だから私を社外取締役にされたのでしょう。恐らく議論を通じてお互いの考えは少しずつ変化し、柔軟になっていったのでしょう。
 
かくいう私も、数年前までは市場経済こそ全てに勝ると考えていました。けれども、いまは市場経済を否定はしないけれども、格差や環境といった問題を考えると市場経済だけでは万能ではないと考えるようになりました。そうしたイシューの解決を市場経済に求めても「無い物ねだり」ではないかと思います。昔の私からすると相当「変節」しているわけです。
 
企業の戦略についても、同じ事が当てはまるでしょう。例えば、海外企業の多くは日本のように中期経営計画を策定しません。数年後のビジョンや方向性は大いに語りますが、数字に落とし込んだりはしません。社会経済は日々、激しく変化します。日本のように純利益が「毎年○パーセント伸びて、5年後には○億円を目指す」なんてことが実現できるのは、計画経済下でもない限り無理でしょう。1年後の利益でさえも、本当に見通せる人は誰もいないのが現実です。
 
終戦55年体制バブル崩壊、冷戦終了、そして平成の失われた20年――。これまでも日本の社会経済は激動の時代をくぐり抜けてきましたが、今後10年の変化はデジタル化の流れでさらに激しくなるでしょう。日本は少子高齢化や過疎化など、世界の中でも最も社会課題の多い課題先進国です。こうした現実に対応してより良い解を見いだすには、常に現実を直視し思考をリフレッシュして、バージョンアップする「変節」が必要なのではないでしょうか。主張と人格を切り離せず、いつまでも同じ経済政策に固執している日本の姿は、いまだに高度成長期の思考回路から抜け切れていない気がします。早く変節をしないと取り返しのつかないことになってしまいます。