藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

すべてを数える日


人の染色体は一セット23本で、2の23乗で800万以上の組み合わせができるらしい。
人はあまりに人工的な世界の中に居ると、自然に触れたくなるし、また野生そのものにいても文明とか科学に憧れる。
自然と人工の間で振り子のように揺れている。

科学技術は自然を解明しようとして、どんどん深いところに分け入っている感じだが、まだまだ到達は見えないようで、だから自然は畏怖し超自然なのだと思うけれど、いつしか人が「全ての数」とか「全ての場合」を理解することができた時についに「自然と人工」が一つになる日が来るのでは、といった恐れ多いだろうか。

コンピュータなどを使って「最高に多い数(数えられるものすべて)」を扱えるようになったらそれが訪れるような気がするのだ。

ニュートンではないが、まだ人間は「科学の海原の砂浜にたつ子供」なのかもしれないけれど、いつか自然を完全に理解する時代が来るかもしれない、と思えばこれは壮大な夢である。
多分生命を創ることもできるだろう。
そうなったら多分人はロボットは作っても、実は生命を人工的に作ることはしないのではないだろうか。

そんなことを考えると自分の生きる時代は、ずい分と科学が発達しているようでいて、案外大自然の中にポツンと人が生きているくらいのことなのかもしれない。
まだ分からないことの方が周囲にはあふれているのに違いない。

・小川のせせらぎを聞いていると、気持ちがいい。
 どうやら、ぼくにとっても、とてもほんとうだ。
 ずっとその音を聞いていても、なかなかあきない。
 流れている水の量が変化しているわけでもない。
 川の石の位置や、底面の状態が変わるわけでもない。
 強い風が吹いて水面を動かしているとも思えない。
 水の流れる方向や勢いを変える要素などが
 ほとんどないと思えるのに、
 聞こえてくるせせらぎの音は、一定でない。
 
 一定のようでいて、微妙に一定でないもの。
 そういうものが、人に気持ちよいのだという気がする。
 小川のせせらぎというのは、わかりやすいそのひとつだ。
 ぼくはストーブをのぞきこんでいるのも大好きなのだが、
 燃えている炎も、一定のようでゆらゆらゆれている。
 人の歌う声も、たぶん、微妙にゆれているのだと思う。
 きれいに鉋をかけられた木材の直線だって、
 顕微鏡の目で見たらゆれているにちがいない。
 
 しばらく前に「f分の1ゆらぎ」ということばを、
 流行語のようによく目にした。
 なにが「f」なんだかわからないままなのだが、
 「一定のようでいて、微妙に一定でない」ものが
 気持ちいいということならば、ぼくにも実感できる。
 
・「一定のようでいて、微妙に一定でない」ものを、
 人工的につくり出そうとしたら、
 それはそれでやれないことではないのかもしれない。
 でも、それは、「微妙に一定でない」のではなく、
 「ものすごく複雑な一定のもの」になってしまうはずだ。
 なのに、自然界というのは、しごくたやすく、
 「一定のようでいて、微妙に一定でない」を生んでいる。
 つまり、いくらでも、ほんとは無限に、それはあるのだ。
 つくらなくても、いくらでもあるんだよなぁ。

 木目のプラスチックを見事につくるのはむつかしいけど、
 ふつうの材木は、もともといい感じの木目だよ、とかね。
 ハエの1匹も、人工的に創り出すことはできないけれど、
 ハエは卵を産んでいくらでもハエをつくりだせる。
 創るではなく、借りるのあたりにヒントがあるのかもな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ひさしぶりに、原稿を送り忘れていた1月5日、でした‥‥。