- 作者: 矢部正秋
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2007/01/16
- メディア: 新書
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依頼者や交渉相手との「心理的距離のとり方」を総括。
武士同士の試合で、相手との距離のとり方を「間積り」というが、
まさに相手との対峙の仕方だ。
確かに思考したり、交渉したりすることは「戦い」に相通ずるものがある。
著者は思考を三分類に分けている。
<思考の3つの分類を意識すること>
1.密着型
(前略)
代理人は感情を抑えるべきであるが、それができない。
これが密着型の欠点である。
2.半身型
四〇代になって、次第に自分の物の見方の欠点に気づき始めた。
(中略)
私も若いころは、相手の屁理屈や傍若無人な言動に感情が激し、眠れない日ほ過ごしたものである。
そんな経験を繰り返すうち、「今自分は昼間の事件で感情が激し、眠れない夜を送っているのに、相手はそんなことは露知らず安眠しているに違いない」と気づいた。
私の怒りや悩みは、独りよがりの空回りにすぎない。
(中略)
こうして、事件に密着して一喜一憂するよりは、対象から距離を置いて半身になって考えるほうが、物事の処理が上手くいくことに気づいた。
いわば半身型思考である。
「半身になって考える」というと簡単なように思える。
だが、実はこれが難しい。
室町初期の天才的な能役者である世阿弥ですらそうだった。
彼が「我見」の限界を知り、「離見(りけん)の見」にいたったのは五〇代の後半である。(後略)
3.俯瞰型
五〇代になって、私は半身型でも不十分なことに気づいた。
目前の事件処理にとどまらず、高所から事件全体を見渡す視点が必要と気づいた。
そのためには、大空を飛ぶ鳥が地上の風景を見下ろすような視点が有用である。
いわば俯瞰型思考である。
(後略)(p194-6)
半身になることすら、難しい、と。
本書でも繰り返し述べられているが、「自分の感情や体裁、プライド」など「自分」についてのことほど、「押さえ」が効かない。
ついつい相手の術策にもハマる。
そのために著者が「相手との距離を置くこと」に気づくのが四〇代。
「自分をも含めた全体」を眺める境地に至ったのは五〇代とのことだ。
これも、得難いノウハウ。
仕事でも、生活でも常に「バードビュー」の自分を意識したい。
そして哲学の境地に
<俯瞰思考の効用>
さまざまな職業の人が、異なった体験を通じ、同じような視点をえていることは非常に興味深い。
おそらくそれが普遍的な視点であることを物語っている。
俯瞰とはみずからを高所に置き、状況を見下ろすのではない。
それでは単なる自己中心的なものの見方に堕してしまう。
高所から他者を見下ろすのではなく、自分を含む全体を見通すのである。
自分を全体の状況の中で位置づける。
このようにして、既成価値観や利害にまみれた自己の視点を再検討することが可能になる。
俯瞰の視点をもつことの効用はここにある。
ものを見る視点はこのように全体像を描き、遠くを見、さらに俯瞰するに至って深まるようである。
全体像を描いたり遠くを見ることは、二次元的なイメージがあるが、俯瞰に至ると三次元的イメージが色濃い。
こうして俯瞰思考は、時空を超えて現実から飛翔し、哲学的色彩を帯びる。
私も仕事を通じて「俯瞰思考」の重要さは三〇代からずっと感じていた。
だが、俯瞰思考を思考法の一つとして明確に意識するのは、五〇代に至ってからである。(後略)
(p230-1)
自分は、この「三次元的イメージ」にまで、まだ至れていないようだ。
「哲学的色彩を帯びる」というのも、「自分をも他人を見る目でみる」ということだろうか、今一つはっきりしない。
著者が、試行錯誤を重ねながら練り上げてきた思考法だ、そんなに簡単に身につくわけもないか、と思う。
そして、「俯瞰思考術」へと進化した著者の思考スタイルは、ついには達人の域へと達した。
思考術の奥伝。
この本は、この段で締めくくられている。
いよいよ最後。
自分がこの本を気に入り、著者が結論に至る過程をじっくり理解したいと思ったのは、この最終部分があったからだ。
ここ最近、ずっと感じていた「感覚」と同じだったからである。
畢竟、生きていく上での原理原則や、生活の姿勢、目指す方向などは同じものなのだな、と確信を深めた。
この部分そのものが、著者のこれまでの「思考の道程」を振り返り、
一気に「俯瞰」してき軌跡のようだ。
<そして、はらりはらりへ>
(柳生)宗矩は晩年に『兵法家伝書』を著し、柳生新陰流の奥義を伝えた。
(以下引用として)
いっさいの道理をみおは(終わ)りて、皆胸にとヾめず、はらりはらりとすてヾ、胸を空虚になして、平生の何となき心にて所作をなす。この位にいたらずば、兵法の名人とは言ひ難き也。
(いっさいの道理を理解しつくして、みな胸にとどめず、さらりと捨てて胸を空虚にし、ふだんの何事もないときの心で動作をする。この境地に至らなければ、兵法の名人ととはいいがたい)
何事にもおどろかず、常の心よろづによし。
平生の心をうしなひて、何にてもその事をいはんとおもはば、声ふるふべし。
常の心をうしなひて、人前にて物を書くならば、手ふるふべし。
常の心と云ふは、胸に何事も残さず置かず、あとをはらりはらりとすてヾ、胸が空虚になれば、常の心なり。
(何事にも驚かず、万事に常の心でいるのがよい。常の心を失って、どうしてもその事を言わなければならないと思うと、緊張のあまり声が震えるであろう。常の心を失って、人前で物を書けば、手が震えるであろう。常の心というのは、胸に何事も残して置かず、あとをさらりと捨てて胸の内が空虚になれば、それが常の心というものである)
(中略)
言葉でこのように納得するだけでなく、具体的にイメージしてみる。
押し寄せてくる難事件を敵の白刃まに見立て、はらりはらりと身をかわしながら対処していく。
それが紛争の予防と処理に三〇年間携わってきた私の理想像である。(p238)
著者も言うように、確かに「奥義」を極めた人の言うことは似ている。
平常心。
著者が「原理原則を語っている」、と思ったのはこの段を見たからだ。
思考の原理、原則。
著者三〇年の苦行?の結晶と言っていい。
今日から直ちに役に立つ、それでいて深い意味を持つ思考法。
滅多にない実務書だと思う。