藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

遊びに行っちゃう。

困ったことに、ネットをふわふわしているとすぐ「別の」リンクに目が行ってそのまま元へ戻ってこれないこと。


もともと何かの本を探していたのに、気がついたらyoutubeに捕まっていた、というのが最近多い。

気がつけばオリビアハッセーに見とれていた。


"A time for us"のメロディが哀しい。

そんなに真っ暗か?

ふとニュースを聴けば中学生にアンケートを取れば70%が「将来に希望がない」という。

70%!!!
(まあどんなアンケートの取り方したのか、questionnaire が見てみたいが。)


何か隕石でも接近して地球滅亡の日が迫っているわけでもなし、世界でも有数の便利な国に住んでいて「希望がない」というのは、これはもう完全にオトナの責任だろう。

自分たちが「希望があるよ」と言ってやれないから、若者たちが希望を持たぬのだ。

なぜか。
大人たちは希望の話を若者にする以前に「自分」に希望がないのではないか。
そりゃ自分が信じていないものを、人に話したってハナから信用などされない。


ということで、まずは「大人たちも希望を持とう!」という交通標語みたいな話か。


希望など今を悲観し、底とも思い、しかしそこから一歩づつ浮かび上がるのだ、と思った瞬間から持てるものだ。


いやむしろ「特に希望も絶望も悲嘆もない」という特有の無気力感が一番タチが悪いか。
活力がない生物はどちらにも触れにくいし。


一見平穏な時代、は生きることの「生命力そのもの」も薄く、弱いものにしてしまうのかもしれない。


平和や飽食、が活力を弛緩させる。
他の動物なら「生きてるだけでいいじゃない」てなものだが、人とは因果なものである。