藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

かならずできる、という根拠。


なんとなく、大人になるにつけ、習慣化したりすること。
固定観念のような。
たとえば「ダメじゃないか」と聞いたとたんに、「ダメだダメだダメだ」と何回も反芻し、そのまま参加の機会そのものも失うタイプ。


とてもナーバスな心の持ち主だが、これでは事は成しえない。
やりたい目標を聞いた途端に、なんだか元気になって、ともかく司会進行してしまうような。
そんな積極性はとても大事だ。


いいとか悪いとか、
権限があるとかないとか、
そんなことではない。


自分がそこに生きる同志として、納得できるかどうかということを真摯に考える。
そんな姿勢から出てくるものではないか。


そして思うのだ。


「できるかも」と反射的に思いが巡るようになれば、しめたものかもしれぬ、と。


しめた 1 【占めた】

(感)

〔動詞「占める」の連用形に助動詞「た」が付いた語。「自分のものにした」という意から〕事がうまく運んで喜ぶときに発する言葉。しめしめ。

「―、この問題なら解けるぞ」



(三省堂 大辞林第二版より)


すでに、「自分の前に立ちふさがった敵」。
これは「敵」ではなくなっている。


自分の前にあるのはこなすべき修行であり、超えられるであろう目標でしかない。
未知のテーマに取り組み、その後が保証されないサバイバルなテーマではないのだ。


まあつまり、目標自体がどれほどのもので、それに「どれほどの」覚悟で臨むのか。
そんな自分の気構えが問われるのだろう。


そして、そんな自分と外界の精神構造うの応酬、が分かってしまえば、それに相応しい対応の仕方、というのも必然的に出来上がってしまうのかもしれぬ。


○か×か、を足早に結論する前に、もっともっと先人と話し、また今後の自分のために「敢えて難路をゆく」という、そんな感性の若者が出てくるに違いない。


若い人のそんな感性そのものが、自分たちの世代の遺産なのだ、などど思いながら若手と話す自分がいる。


年を取る、ということは自分以外の人には受け入れにくい事実なのだろう。