なんとなく、大人になるにつけ、習慣化したりすること。
固定観念のような。
たとえば「ダメじゃないか」と聞いたとたんに、「ダメだダメだダメだ」と何回も反芻し、そのまま参加の機会そのものも失うタイプ。
とてもナーバスな心の持ち主だが、これでは事は成しえない。
やりたい目標を聞いた途端に、なんだか元気になって、ともかく司会進行してしまうような。
そんな積極性はとても大事だ。
いいとか悪いとか、
権限があるとかないとか、
そんなことではない。
自分がそこに生きる同志として、納得できるかどうかということを真摯に考える。
そんな姿勢から出てくるものではないか。
そして思うのだ。
「できるかも」と反射的に思いが巡るようになれば、しめたものかもしれぬ、と。
しめた 1 【占めた】
(感)
〔動詞「占める」の連用形に助動詞「た」が付いた語。「自分のものにした」という意から〕事がうまく運んで喜ぶときに発する言葉。しめしめ。
「―、この問題なら解けるぞ」
すでに、「自分の前に立ちふさがった敵」。
これは「敵」ではなくなっている。
自分の前にあるのはこなすべき修行であり、超えられるであろう目標でしかない。
未知のテーマに取り組み、その後が保証されないサバイバルなテーマではないのだ。
まあつまり、目標自体がどれほどのもので、それに「どれほどの」覚悟で臨むのか。
そんな自分の気構えが問われるのだろう。
そして、そんな自分と外界の精神構造うの応酬、が分かってしまえば、それに相応しい対応の仕方、というのも必然的に出来上がってしまうのかもしれぬ。
○か×か、を足早に結論する前に、もっともっと先人と話し、また今後の自分のために「敢えて難路をゆく」という、そんな感性の若者が出てくるに違いない。
若い人のそんな感性そのものが、自分たちの世代の遺産なのだ、などど思いながら若手と話す自分がいる。
年を取る、ということは自分以外の人には受け入れにくい事実なのだろう。