藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

いやなヤツなどどうとでもなること。


会社や学校にいやなヤツがいて、もう行きたくない。
働きたくない、という話をよく聞く。


そんなヤツを口で説得するのも難しそうな話だが、ともかく。

言いたいのはそんなもの「見方次第だ」ということ。
どんないやな人間も、あるいは最高の自分のトレーナーかもしれない。

そう、鬼教師。


その受けたストレスや、コノヤロウ、と思う気持ちはどれほどの反力として自分の精神を鍛えているかもしれない。


「敢えて難路を行く」という言葉の意味するものは何か。
その難路の道程や、「挫折や敗北」こそが「その次」の当人を別人のように鍛え上げるのだ、ということを示しているのだ。


なにも難しいことはなく。
ただ素直に受け入れればよいのか。


精神、の強さ


高校のイヤな物理の教師は、実はそんな「苦手分野に徹底的に向き合う」というミッションを自分に対して果たしてくれている鬼コーチかもしれぬ。


後から解釈すれば、いかようとも、だ。
自分を鍛えてくれた鬼コーチに、後から感謝するのは(勝者の)お決まりのストーリーでもある。


いかようとも「プラス」に転化できるのだ。

そして、「そのこと」をなるたけ若いうちに知っておけば。
「挫折」は挫折でなくなり。
「失敗」はむろん失敗でなく「成功へのとば口」に見えてくる。

たかが気持の切り替えだが。
エラいこっちゃ。


自分の人生で起こる、いろんな凸凹など、すべて自分のプラス材料に変えてしまえ!

ただ、「他人の指摘した事実」だけは重く見ろ。


岡目八目。
自分だけが気づいていない「鏡」の役割を周囲が果たしているものだ。
そこさえ素直に受け止められれば、どんな苦難も先へ進むエネルギーに変える永久機関を備えたも同然。


人の「精神」というのは魔法すら産み出す究極のソフトウェアなのかもしれない。

こういうのが、人間に備わった最大の賜り物ではないか。
またそれが「ヒト」に課せられ、期待されている運命なのかも知れない、などと思う。


何だかそんなことを書いていたら楽しくなってきた。


気持ち、とは大事なものだ。