藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

スポーツ+精神

オリンピックはもう前半が終了したと。


ハイライト報道はおトク感満載である。(喜)
選手たちはオリンピックへの出場権を獲得し、さらに予選を勝ち抜いてメダルを争う。


何か「金メダルしか欲しくない」とかいうのは少し違うような気もするが、それはともかく。

出場する選手はほぼ全員が「このために」という目標を持って日々鍛練を続けてきたアスリートばかり。


スランプに陥ったり、激しい練習には必ず付き纏うだろうケガや故障。
こうなってくるとメンタル的な部分も非常に重要だ。


そんな生活を四年も続ける。
(実際は世界選手権とかが間に挟まるので、もっと大変かも)


そして世界中の人が注目する中、一発勝負。
「究極の修行者たち」の夢の祭典でもある。


が。

賞味期限


メダルにまで達した人、達せぬ人。
それぞれが極限まで努力した結果だけに悲喜こもごも。


それこそメダリストたちのはじけるような喜びの様子、も見ていて好感するが。
それでも何かもの悲しい。

柔道、とか剣道とか。
ああいう類のものは、スポーツというよりは「精神修練」の一つのメソッド、という性格が強い。
ゆえに、あまり「そういう悲しみ」は感じない。

あれらに比して、水泳とか、陸上競技とか野球とかが、その精神面にどれほどのセオリーを持っているのかについては自分には知識がないが、体力的に考えて「今しかない」次はおそらくはもうないのだ、という選手たちの気持ちとか。


そんな雰囲気が「勝利の瞬間」からひしひしと伝わってくるような気がする。


記録を作る、ということは偉大。
だが記録はいつしか塗り変わるものでもある。


水泳道、とか野球道、とか何か「その後」にも積み重ねて、さらに追求していくもの、がスポーツには必要なのではないか。


アスリートたちは、引退後もその強い精神力を生かして活躍しているのかもしれないが。


また話は違うが、日本というのは「そういう精神性」を強く志向する文化が強く根付いているようにも思う。

長く辛い修行を続ける。
ただ、その修行を「一生モノ」ととらえ、自分の人生の中に位置づけ、特に終わりはない。

スポーツ(運動、競技)がスポーツでなくなる瞬間か。



躍動する選手を眺め、みなに「もっと先があるといいのに」とふと、そんなことを思う。