藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

教える快感、ああカン違い。


最近、若い人(十代、二十代、三十代前半)と飲んでいてハタと。

自分が何だかエラい説教口調になってないか。
上からのモノ言い、というか。


「あぁ、だからね、それはさぁ・・・」とか

「違うよ、それはねぇ」とか

「分かってないなぁ」とか。

自分が若いころもっとも忌み嫌った物言い。
説教口調。


『もう君タチの言いたいことは分かってるって。』


しかも酔うのも早い。

呂律(ろれつ)が回らずクダクダ説教しているオッサンなどまっぴらだと思っていたが。

自分がそれか。
酔っぱらいオナニー状態。


教える快感に冒されている。

たぶん人に「自分の知っている『何か』を教えてやっているのだ」という無言の思い上がりがあるのだろう。

醜悪ですら。

学びの姿勢

と同時に思い出す。

自分の「学び」への拒否感を。

他人に指示された、と思ったとたんに十分の一にもなってしまう「自発性」。

あの原因はどこにあったのだろう。

あれだ。

あの。
自分では何も決めていない時間割である。と気付く。


時間割も、若者も。

自分で「何か進んでいる、選んでいる」つもり、でいる。

そこに「上からの物言い」は百害あって一利なし。


我われオトナはそこを認識せねばならぬのではないか。


自分が「よかれ」と思って放ったアドバイスは、若者をディスカレッジするものでしかないかも知れぬ。


自分の思いより、相手の心情。

説教は「上から」するのではなく、「対マン」でせよ。

またそんな意識がシニアに定着すれば、若い世代とのノウハウの交流はものすごく進むだろう。

「教える」のではなく「話す」。


「説教」ではなく「対話」。

年長者側から、いかに若者に思いを伝えるか。


そんなのは、我われの「企み」としてこちら側から仕掛けるものだろう。
思うにまかせて説教言葉を言い放っていたのでは伝わらぬ。


酒場でもただ飲んでいるわけにもいかぬのだ、と思う。