藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

整理しておきたいこと。

「ネバーギブアップ」とか「継続は力なり」とかとか。
確かに正しいと思える「人生訓」。

確かに正しく、とても大事。
が、こういう黄金律は「それ自身」が金科玉条となって独り歩きすることがある。
まあ自己目的化である。

方向がズレているのにただモチモチと繰り返していても埒があかぬことだって多い。
で、「積み上げ」が実感できないからそのうちに諦め、止めてしまう。


ああ、何も身につかないな…という「負の連鎖」にハマる。

先人から「適切な指導」など受けながら、先々のことを考えてゴールを定めぬと、せっかくの地道な努力も実を結ばぬ恐れがある、と思う。


音楽とか芸能とか、そんな世界のことならかなり「上達の道程」は確立されていたりするだろう。
が、ホワイトカラーだったりすると、自分の進む方向の正しさ、などには定位感を欠く。


俯瞰するために


日々のエンジンを止めずに、進むチャート(海図)を間違わぬこと。
チャートと船の推進、が「車の両輪」のように重要だ。


そして決め手になるのは羅針盤(コンパス)か。
それが例えば「先人のアドバイス」だったりする。

海図が設計され目的地が定まっても、日々進むうち「ズレ」るのは必定である。

ズレをいかに把握し、修正していくか。
そんな行為を習慣にできれば、多少の嵐も恐くないというものだ。


難しいのは「そんな眼」を定期的に持てるかどうか、ということである。


観測する機会、を作ること。


ブログ、というか日記などは日々の記録を残せば、そんなチェックに役立つだろう。ただ
そうでもなければ、何か大きな「目的地」のようなものを決めておきたかった、とも思う。

そんなに淡々と見通せるものでもないが、十代、二十代、三十代、四十代、五十代、と「何か」の目的地、を策定してみるのはどうだろうか。


自分も四十代からではあるが、どの大陸に近づきつつあるのか、どの海流に乗っているのかいないのか。
そんなことを考えてみたいと思うようになった。


自分も少し定位感を失っているのかもしれぬ。


が、四十代でたどり着いていたい「陸地」や、
発見したい「島」や
ジュゴンとか北極グマ」などを大体でもイメージしておくのは、地味だけど「どっしりとした」人生の歩み方ではないだろうか。


「成功の言葉」だけが唯一絶対の黄金律ではない、という話がとんだ人生の航海ばなし、になってしまった。

そういや、何でも人生に例えてみると妙におかしいことに気がついた。


それについてはまた書くことにします。