「子供の頃の輝くような毎日を取り戻せないものか」
とは日経ビジネスの特集記事。
ホホウと思ってみたら、中は小説だった。
で、それはともかく。
「子供の頃の自分の毎日は輝いていたか?」と自問する。
返答はノー。
ずぇんずぇん輝いてなどいない。ずぇんずぇん。
むしろ楽しくなかったような記憶が勝っていて、まあ楽しい一瞬もあったかな。という程度である。
自分はそんな悲惨な少年時代は送っていないはずなのだが、まあその程度のものなんである。
しかし「子供の頃の輝くような毎日」という言葉に違和感はない。
まったく。
それはなぜか。
恐らく、子供に「今キミは輝いているか」と問うても、「は?」てなもんだろう。
子供の「輝き」を見ることが出来るのは我われ大人なのである。
当事者の子供が「子供」している最中は自分の輝きなどそれほど感じるものではない。
むしろ「オレは今輝いている」というやつは暑苦しい輩だろう。
翻って。
「子供の頃の輝くような毎日を取り戻せないものか」
という問いは正しくない。
この問い、が浮かぶ自分の心の状態が問題なのだ。(小説もそんな主旨のようだが)
子供の頃の輝く…ではなく、「オッサンでも、今の自分を輝く…」が正解である。
どの年になっても、新しいことを「子供のように」楽しむ老人がいる、というのは誰もが知るところ。
子供のように輝く日々は、実はすぐ足元にある。
もちろん取り戻せる?し、そう思えば「一生輝く」ことも可能だろう。
自分次第でこれからの人生、どうにでもなる、なんてなんて楽しいことだろうか。(嬉)
そんなことは、でもかなり年を取らねば気付かないことなのだ。
ここいらが、若さの蹉跌、老いの深みなのである。