藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人は人を裁けるのか。


青森地裁での強盗強姦事件。
裁判員制度は意外なところでも影響している。

《女性にとって強姦されるということは、死よりも辛く、悔しく、恥ずかしく、耐えがたい苦しみです》

懲役15年ですら短すぎる、というこの意見は「女性」の総論としての意見を反映しているのだろう。

無期懲役」こそ妥当、と主張する。


「罪の重さ」というものの重さ。
裁判員制度はこの難しい領域に踏み込んだのかもしれない。


被害者当事者の立場になって、許せないと思う「被害者感情」。
一方で、その犯罪が相対的にどの程度のの「悪質さ」であり、畢竟どの程度の「年数」の罪で償われるべきなのか。
いろんな罪の過程とか、被害者の心情とか、をすべて「量刑」で収束するところに最大の矛盾が潜んでいる。


もとより、そんな論理的に割り切れるものではない。
だが、「数字」に表す必要もある。


心情的には無期懲役、あるいは死刑。
だが、「人一人の命」という基準で考えた場合、「ある程度の償い」で決着せざるをえない、という理不尽さを自分たちの社会は包含している。



自分たちが同じ人間を「裁く」という自治の仕組みにも、一抹の後ろめたさもある。
自分たちがこれから侵すであろう、あまたの罪を、これも自分たちの枠組みの中で、自分たちが処理してゆかねばならない。
人間ゆえの、宿痾(しゅくあ)とも言える、そんな淵に裁判員制度は手をかけたのかもしれない、と思う。