藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

役者の矜持。


それにしても、新聞各社がポータルを運営しているが、ずい分はっきりと「明暗」が出てきたように思う。
先日、asahi.comのプレミア会員(有料会員)に登録をしたが、それはコンテンツの魅力。


タダで閲覧できても「時間の無駄」と思える報道局もあるなかで、ニュースに絡めた話題、コラム、企画、風俗記事、エッセイ、書評、広告宣伝、すら魅力的なコンテンツになり得る。
ただただ「事件報道の羅列」に終始するところと、工夫に工夫を重ねるところには、いつしか遠大な距離ができている。
新聞はネットに「ひたすら浸食される」かもしれないが、「その先」のコンテンツ勝負では、地道な努力が勝敗を分けるようである。


超ベテラン、三国連太郎
その風貌はもはや吉本隆明よろしく、哲学者のようである。

 僕は神社の縁の下に寝泊まりしていました。仕事にありつけるならなんでもいい。翌朝、小出さんと大船撮影所に行き、木下さんにお会いしました。

何気ないエピソードも、戦争経験から語る口調には迫力がある。
これぞ年輪。
そして、役作りのために前歯を五本も抜いたという。
生半の覚悟ではない。

相手役の田中絹代さんは実際は13歳上だから、うまく老けなければいけない。
俳優仲間の西村晃にそそのかされ、前歯を5本抜きました。腫れ上がった顔がいい老け具合でね。
戦争の本質を描いた内容ともども思い出深い作品です。

役者であって、ゲイノウ人ではない。
その職業にして、その職業の本質を問う、というのはどんな職業にも共通の核心なのだと思う。
(ということは自分たちだった同じ厳しさがあるはずですね)

社会の矛盾に目を向け、役者として何をすべきか、己の生き様を真剣に考えるようになりました。

役者として何をすべきか。
これが職業人、というものだろう。
感動。

でも、どんなものも自分なりに主導権を持てばいい。
喜劇のリズム感を体得するのは役者として損ではないと思い直したんです。

仕事も、遊びも、恋愛も、趣味も。
『どんなものも、自分なりに主導権を持てばいい。』


生きて行くのにこれほど勇気づけられる言葉もない。
それをあえて今、若きに語る三国連太郎、86才。
なんて魅力のある男だろうか。

俳優・三国連太郎さん 追憶の風景 三十三間堀(東銀座)


戦地から戻って5年、なかなか職につけませんでした。

 中学の同級生を頼って上京したものの、彼とは会えぬまま。途方にくれて銀座を歩き、いまは埋め立てられた三十三間堀あたりで暗い水を眺めていたら、「お兄ちゃん、ちょっといい?」と声をかけられました。

 松竹の小出孝プロデューサーでした。木下恵介監督の「善魔」に、主役の岡田英次さんがレッドパージで出られなくなり、中止が決まった直後だったのです。そのまま会社に連れて行かれ、とりあえず木下さんに見てもらおうという話になりました。

 僕は神社の縁の下に寝泊まりしていました。仕事にありつけるならなんでもいい。翌朝、小出さんと大船撮影所に行き、木下さんにお会いしました。

 経験がないから何を聞かれても答えようがない。キャメラテストでは、言われるままに右向いて左向いて。とにかく腹ぺこだったからカツ丼を食わせてもらったのがうれしかった。

 その夜は木下さんの自宅に泊めてもらいました。翌朝、テストプリントを見た木下さんが「君で行こう」。三十三間堀から3日目で映画界入りが決まりました。

 ずぶの素人に、木下さんは手取り足取り指導してくれました。僕の本名は佐藤政雄ですが、木下さんが「三国くん、三国くん」と呼ぶので、役名の三国連太郎が撮影所での名前に。あれも僕をその気にさせるために意識的に呼んだんじゃないかと思っています。

 続けて3、4本の出演が決まりました。1年ほどして、東宝から「戦国無頼」で三船敏郎さんとの共演のお誘いが。三船さんは戦地から帰って初めて見た「羅生門」で、すごい俳優だと思っていた。それで東宝に移り、豊田四郎成瀬巳喜男といった名匠に使っていただきました。


高い出演料をもらい、夜遊びもおぼえた。ちやほやされながら、どこか身にそぐわないと感じていました。このままだと自滅するという恐怖に襲われた。5社協定破り第1号で東宝を飛び出し、独立プロ作品に出演しました。

 最初は、家城巳代治(いえき・みよじ)監督の「異母兄弟」。強権的な軍人の役です。相手役の田中絹代さんは実際は13歳上だから、うまく老けなければいけない。俳優仲間の西村晃にそそのかされ、前歯を5本抜きました。腫れ上がった顔がいい老け具合でね。戦争の本質を描いた内容ともども思い出深い作品です。

 家城さん、山本薩夫さん、今井正さん。独立プロの監督には大きな影響を受けました。社会の矛盾に目を向け、役者として何をすべきか、己の生き様を真剣に考えるようになりました。

 役者は1本1本が勝負と思ってきたので、「釣りバカ日誌」を20年以上も続けたのは自分でも意外です。

 最初は正直言って、事務所を支えるために引き受けた仕事でした。でも、どんなものも自分なりに主導権を持てばいい。喜劇のリズム感を体得するのは役者として損ではないと思い直したんです。

 スーさんという経営者の立場で社会を見るのも勉強になりました。だから「ファイナル」の最後の演説シーンは印象深い。「会社は誰のものか。社員のものだ」。反骨のメッセージです。それに多少のプラスになる芝居ができるなら出たかいがある。そういう役者であり続けたいと思っています。

    ◇

 戦争体験と漂泊者というルーツが、反骨の名優の原点。役のイメージとはかけ離れた穏やかな語り口だが、その言葉はいまも熱い。(深津純子)

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 みくに・れんたろう 1923年生まれ。「飢餓海峡」「復讐するは我にあり」などに出演。西田敏行さんとの「釣りバカ日誌」が公開中の第22作で完結。写真は郭允撮影。