まあ。
人には得手不得手がある。
遺伝子的にも仕方がない。
あまり足の長い人に「俊敏に踊れ」というても気の毒である。
島岡要さんの理論に「強みを生かす」(strength based approach)というのがある。
あまり「弱点の克服」にパワーをかけすぎても、本筋の目的を見失うぞ、ということでもある。
つくづく。
企業などで、仲間と一緒に仕事をしていると、どうしても各人の「強みと弱み」が見えてくる。
自分ひとりで何かをしているのではないから、当然である。
だが、自分たちはついつい「お前のここが悪い」「ここを直せ」ということに着目してしまう。
そして当人もそれを意識し、またコンプレックスに思っていたりするので、結構消耗する。
そして「せっかくの強みの伸長」にまで悪影響を及ぼす。
意外にそんな例は多い。
最近は少し見方が変わってきた。
『ダメな部分はダメで、もういいではないか。それよりも強みをどんどん伸ばせ。』という風にも思う。
克服の鉄則。
自分の記憶を掘り起こしてもそうである。
「その欠点」を、自分が「進んで克服したい」という場合にのみ、欠点克服のための努力は結実し、功を奏する。
だが、当人に「自発的な克服の動機」がない場合には、そのためのパワーは空中に拡散し、そして本人は疲弊する。
ここらを世の教育パパママは分かっていないと、「いくら勉強を促しても、どんどん成績は下降する」というまったく努力と結果が反比例する事態に陥ることとなる。
一生懸命、自分の目指す方向に力を使いながら、「もっとも望まぬ方向に事態が進んでいく」というのは人生ではよくあることかもしれない。
「強みの強化と弱点の克服」にはそんな心理的な関係があるのではないか。
今から自分の「やりたいこと」、と自分「得意なこと」は何か、ということを考えたら、そんな「強みの強み」と「弱みとの付き合い方」に考えが及んだ。
とかく、人の心は他人の思惑通りには動かない。
流れる雲のようなものではないか。
常に、自分の思惑は、ただ自分の心のありようによってのみ、流れを変える。
自分が自分の心を思わぬ限り、人から見れば正に「雲を掴む」ようなものになる。
まこと、人の心は他人にはとらえにくいものらしい。
自分の心は、他人にどう見えているのか。
そんなことを考えている。