藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

本当の目線。

糸井さんのブログより。
理想と現実を比較して「今が理想です」と言える人はともかく、普通は「理想ではない自分」を受け入れながら生きている。
そうそう理想がリアルになることなどないから。
それを受け入れないのなら、瞬時に自分を否定せねばならない。
生物としては「それ」は避けているのだと思う。

けれどこの「自己否定の視線」というのは成長には必須である。
つまり人生というの劣等感との戦いなのかもしれない。
うぇー。

けれど、どこかでそれを分かりながら「適度に楽しんでいる自分」がいる。
(いなければ生きていられないだろうし)

けれどどんどん「ユルい自分」を許して、こんな自分でも良いのだ、という気持ちが優位になってくると面倒くさい。
何か怠惰で醜悪な生き物がそこにいるのだ。

自分がダメなことをダメだと思わない自分。
それは何か成長とか新陳代謝を止めた肉塊のような気がする。
自分が理想の存在とはどう違うのか。
何が足りないのか。

そんなことを常に考えていながら、大事に生活するという矛盾した状態が人の生活ということなのだろう。
いつでもダメな自分について語れるようにしておかねばならない。

じぶんの弱点、欠点、劣等感というようなもの、
 おそらくない人はいないだろう。
 いかにも欠点のないように見える人でも、
 おそらく訊いてみたら、なにかしらは答えそうだ。
 
 ある人にとっては、まったく意味のないようなことでも、
 ある人にとっては、重い意味を持つようなこともある。
 おしゃれであるかどうか、田舎の出身かどうか、
 異性を知っているかどうか、背が高いかどうか、
 勉強ができるかどうか、ケンカが強いかどうか、
 デブかどうか、ハゲかどうか、不細工かどうか、
 運動神経がよいかどうか、金持ちかどうか、
 色が白いかどうか、歌がうまいかどうか、
 学歴が高いかどうか、教養があるかどうか、
 家柄がよいかどうか、話がうまいかどうか。
 気にする人には、限りなく気になることがある。
 そして、それについてのビジネスもたくさんある。
 すべて、考えようによっては「減点項目」なのである。
 
 「自己肯定」というのは、そういった減点項目について、
 「それくらいの減点なら、されてもかまわない」
 と鷹揚にいられるということなのだろうなと思う。
 どんなときでも、「どうぞ、ご減点ください」と、
 裸でいられるというのは、ひとつの理想だ。
 どんどんどんどん他人に減点されていって、
 無力で貧弱な「じぶん本体」だけになっても、
 平気でいられるというのが、いちばんいいなと憧れる。

 だんだんと、年をとって行くうちには、
 そういうものに、だんだんと近づいては行くようだ。
 でも、さまざまな見栄の部分をまるまるはがされたら、
 寒くてくしゃみやハナミズが出てくるような気もする。
 
 まぁ、ねぇ、憧れは憧れとして。
 自己肯定しきれないまま、
 微妙な劣等感や虚栄心と駆け引きしながら、
 日々を過ごしていくというのが、
 人間が生きる面白味なのかもしれないけどね。
 よく考えてみると、赤ん坊というのは、
 スタートしたばかりの人間だけど、ゴールにいるよね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
犬やら猫やらも、ちょっとした劣等感とか虚栄心あるよね。