藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

栄光ある撤退、という英断。


asahi.com 患者を生きる、より。
ALSを発症した照川さんの手記より。

意思疎通に使うセンサーをどこに着けるか。筋肉が動く場所を苦労して探した。やっとセンサーの扱いに慣れたころ、その場所が動かなくなる。


絶望して天井を見て過ごし、気持ちが落ち着いたら、センサーを着ける新たな場所を探す。その繰り返しだった。

自らは意識がありながら、その意思を伝える術を奪われる。
意識ある人間にとってどれほどの恐怖だろうか。

要望書は計9ページ。自分自身にとっては、考えていることを人に伝えられて、はじめて生きているといえる。意思の疎通を図れなくなったら、苦しくないようにしたうえで、呼吸器を外して死なせてほしい。そんな希望を述べ、最後をこう結んだ。


「TLSになって人生を終わらせてもらえることは、栄光ある撤退と確信しています」

「考えることを人に伝える」それすなわち、「生きている」ということなのだろうか。
自分はそこまで「生きていること」の意味を考える機会がなかった。
「自分が何を思っていようと、それは「外部に伝わらない」という状態は、生きる上では最大のジレンマなのかもしれない。
そして、迫りくる難病に立ち向かい「もしそうなら撤退も辞さず」という意思表明には深く考えさせられる。
照川さんの言う「栄誉ある撤退」とは何か。
しかし、これはやはり「栄誉ある撤退」だと思う。


医学が進み、寿命はめざましい伸びを見せた。
その延命治療の中で、自分の、「自分なりの尊厳」をかけた「往生の姿」というのは有るのだろうと思う。
今の我われ戦後世代には、なかなかその「覚悟」は見えにくいが、自分たちの人生は「生きていることそのもの」ではないのかもしれない、と改めて思った。


死してなお、後世に残る思いこそが、実は「真に生きる」ということの証なのかもしれない。


命のともしび 心は自由:4 「栄光ある撤退を」病院へ要望書
筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症した千葉県勝浦市の照川貞喜さん(70)は、人工呼吸器を着けてからも症状が進み、2000年ごろには自由に動かせる筋肉がほとんどなくなっていた。


意思疎通に使うセンサーをどこに着けるか。筋肉が動く場所を苦労して探した。やっとセンサーの扱いに慣れたころ、その場所が動かなくなる。絶望して天井を見て過ごし、気持ちが落ち着いたら、センサーを着ける新たな場所を探す。その繰り返しだった。


03年には左ほおの筋肉も活動を止めた。
「最後に残った右ほおも動かなくなれば、社会と隔離される。それは耐えられない」


意思を伝える方法をなくし、外界との意思疎通を完全に断たれた「TLS」という状態になって、なお生き続けることへの不安や恐怖が膨らんだ。


在宅治療を受ける亀田総合病院にあてて、今後の治療についての希望を要望書として少しずつ書き始めた。06年のことだった。
パソコンの画面に表示された五十音表を見つめ、ゆっくり移動するカーソルが目的の仮名にさしかかったところで、ほおのセンサーを動かす。一つずつ文字を拾い、根気よく入力する作業が約1年間続いた。


要望書は計9ページ。自分自身にとっては、考えていることを人に伝えられて、はじめて生きているといえる。意思の疎通を図れなくなったら、苦しくないようにしたうえで、呼吸器を外して死なせてほしい。そんな希望を述べ、最後をこう結んだ。


「TLSになって人生を終わらせてもらえることは、栄光ある撤退と確信しています」


妻の恵美子さん(68)は、何度も尋ねた。「死んじゃったら、おしまいだよ。本当にいいの?」。しかし、夫の考えは変わらない。


発症して20年近く、夫は苦しみを乗り越え続けてきた。恵美子さんには、それがよく分かった。「もうこれ以上無理してほしくない。思いを尊重したい」


07年11月。プリントアウトした文書に、3人の子どもといっしょに署名した。在宅医療を担当した小野沢滋(おのざわしげる)医師を通して、病院に提出した。


要望書の通り、生きている状態で呼吸器を外せば、殺人罪に問われる可能性もある。病院はすぐに倫理問題検討委員会を開き、議論を始めた。