藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

子の心親知らず。


ヘンな書き出しだけれど、これが、なかなか伝わらない。
その理由は「抵抗」だと思う。
抵抗とは小学校の理科の回路図で習う、「あの抵抗(resistor)」である。
素直に電流が「その中」を通過しようとしているのに、熱を発し、時には絶縁してまでも抗うのである。


物理学と親子関係が(恐らく)違うのは、「愛情」の存在ではないだろうか。
"親の心子知らず"という格言の通り、子供は、通常は親になるまで「親心」が分からない。
ゆえに、親にいかに説かれ、指示され、懇請されても「反対のこと」をしたりする。
正に「親の心子知らず」である。


でも逆も正しい。
つまり"子の心親知らず"である。
親が子供に「真っ当に」とか「穏当に」とか「安定して」と思って発する言葉は、たいがい「子供にとっては欲求に反する言葉」である。


夜遊びするな、とか勉強せよ、とか「いい学校に入れ」とか働け、とか。
そして異性や友人と付き合うようになっても「ここがいい、ここが悪い」という話ばかりで「子供がどう思っているか」ということは通常斟酌されない。

そして、その時子供は"最大限にイラつく"のである。

親子とか、師弟とか、上司部下とか、兄弟とか、「そういう上下関係」にある人たちは"自分の立場の蔑(ないがしろ)"表現に殊のほか敏感なのである。
そして、その神経に一旦触れてしまうと、しばらくは客観的な思考力を失う。
「何も聞きたくねえ」と耳を閉じてしまうのである。

けれど親心


で話は戻るけど、「親が子に思うこと」というのは古今東西、厳しいか甘いか、という違いはありこそすれあまり変わらない、と思う。
"それ"さえ子供が前提として把握すれば、親の言葉も「先輩の諫言」として冷静に聞けるだろうし、例えその場では感情に流されても、後々には「その言葉の本来の意味」を汲み取るようになると思うのである。


したがって。
自分たちはその「子供や若者に対する"中心的な考え"」を伝えることに腐心しなければならないのかもしれない。
ついつい、「こういう風にしろ」とか「なぜこれが分からないのだ」という風に接してしまう。
けれど、そこが踏ん張りどころである。
そんな「若い心」を一旦は汲み取り、そして最善手と思える会話をしていきたいものだと思う。

坂本竜馬兄曰く「議論は恨み以外になにも生まんぜよ」。

まったくである。
♭fujino♭