藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

レコンキスタ。

いわゆる教育ママ。
大変な努力を払って子供に教育を試みるのだが、その「魂」がない。
最近は高学歴の「やること難民」が多いが、こうした受験教育ありきの影響である。

少々程度の高い大学や院を出ても、やることがまったく見えてこない、ということを今の大卒・院卒者は感じている。
そしてその答えは、なかなか社会にはない。

「子どもは分身じゃない」ということです。
自分とよく似ていても、まったく別の人格として、別の人生をひらいていく存在なのだ、ということです。

と、保坂氏は言うけれど、自分の感覚で言わせてもらえばそれどころではない。
もう子供の将来について、特に「既成の世代感覚しかない親」は口出しすべきではない。
とりあえずJMARCH(旧東京六大学)へ、などと言って「その後」に口をポカンと開けているわが子に自分も唖然としている親世代は多い。(その親の多くが五十代である。)

自らの失地回復などはともかく、ともに「これからの社会について」考えねばならないのが親のせめてもの役割である。
体裁を気にする時代は、もうとっくに終わっている。

早期教育で「失地回復」はかる母の危うさ

保坂展人
2014年7月29日 

早期教育の取材を続けていた20年前のことです。

「朝、起きたらまずプリントをやります。次に教室に行って、それから…」と、びっしり我が子の学習日程を組んで、叱咤激励しているタイプの親たちに何人も会いました。

「この子は、私がそろそろ勉強してほしいなと思うと、さっと自分からプリントを持ってきて始めるんですよ」

 そう言って、母親は目を細めます。

 自由時間はないのですか――などと聞くと、すぐに答えが返ってきます。

「本当はもっと、のんびりとさせてあげたいんですが、厳しい競争がありますから。子どもにのびのびと育ってもらうためにも、今は少々の無理は仕方がありません」

 私学難関のエスカレーターに早く乗せることが目標だというのです。

 乳幼児から小学校の低学年まで、親の言うことを忠実に実行して、お母さんが喜ぶ姿を見て、ますますその期待に応えようとする子どもがいるのは事実です。

「子どもってすごいですねえ。まるで吸い取り紙のように、新しい知識をどんどん吸収して伸びてくれています」と語るお母さんは、桃源郷にいるようでした。

「子どもの学力増進が自分の幸せ」という母子一体化の二人三脚を、全国チェーンの教育産業がかきたてます。大きな舞台で年齢別、学年別の「優秀児表彰」が行われ、「優秀児の母」として子どもと共に母親も顕彰されるのです。

 そんな母親たち自身は、どんな子ども時代を過ごしたのでしょうか?  

 子どもだった時期に一番楽しかったことを覚えていますか、などと質問すると、

「うちの子は、毎日勉強してどんどんランクがあがっていくことを楽しんでいます。勉強が最大の娯楽です」

 などと、トンチンカンな答えが返ってくることが何回かありました。

「あなたの子ども時代は?」とたずねても、「うちの子は」と答える。24時間、考えているのは子どものことばかりで、全国順位の競争結果に一喜一憂する。そんな日々の轍(わだち)は深いのだと知らされました。

「私ができなかったことを、この子にはやらせてあげたいんです」という言葉を耳にして、ひらめいたことがありました。子どもの成育は、親にとっての「生き直し」であり、「失地回復レコンキスタ)」なのだ、と。

 多くの人は、習い事でも、成績でも、進学先でも、人生のなかで「思うようにならなかった経験」を持っているものでしょう。そのうまくいかなかった自分の代わりに、子どもに期待を託そうとするのです。

 生まれてきたばかりの我が子は、まるで新品のマシンのようにまっさらで、何も入力されていない可能性の塊に思えます。それだけに、期待ばかりが高まるのです。

 早期教育のプログラムに猪突猛進している母親たちが自分の子どもをまるで分身のように扱い、意のままにコントロールしている姿には違和感を持ちました。でも、その一方で、謎が解けたようにも思いました。

 とくに女の子を持つ母親の場合には、自分の人生をリセットした「生き直し」という形にピタリとあうケースが目立ちました。子どもは、自分であり、自分は子どもです。そこに、人格の境界線はないのです。

 ところが、人間の成長過程には「思春期」が組み込まれています。それが一心同体に見えた母子関係を狂わせるきっかけになることがあるようです。

 私は、早期教育の広告塔となっていた何人かの「優秀児」「天才児」のその後を追跡したことがあります。

 将来を嘱望された「優秀児」たちの何人かは「嵐のような思春期」に揺れていました。同年齢の子どもたちを寄せつけないほどに高いレベルの学力を持っていたはずなのに、中学生になって自問自答を始めます。

「自分は親の期待にただ応えていただけの存在だったのではないか」
「自分で望んでやっていたわけではない勉強や知識は、自分のものではない」

 自我の芽生えの中で苦悩を深め、外に出られずに嘔吐(おうと)を繰り返す苦しい日々をへて、ようやく脱皮したという話も聞きました。

 親もまた、子ども時代のみならず思春期を送ってきたはずです。でも、その記憶をスッポリを切り捨てて、子どもを所有物のように扱い、自分の期待を叶えるために無理を通していくと、思わぬ反動がやってきます。

「私の思うがままだった我が子」は、小学校高学年から中学・高校にかけて、「何ひとつ言うことを聞かない我が子」に変貌するのです。

 親につくられた自分の仮面をはいで子どもが自立していく過程で、戸惑い、右往左往することのないようにしたいものです。覚えておきたいのは、「子どもは分身じゃない」ということです。自分とよく似ていても、まったく別の人格として、別の人生をひらいていく存在なのだ、ということです。

 早期教育に限らず、そうした認識が、その後の長い親子関係を持続可能なものにするのではないでしょうか。

PROFILE



保坂展人(ほさか・のぶと)
1955年、宮城県仙台市生まれ。世田谷区長。高校進学時の内申書をめぐり、16年間の「内申書裁判」をたたかう。教育ジャーナリストを経て、1996年より2009年まで衆議院議員を3期11年(03〜05年除く)務める。2011年4月より現職。『闘う区長』(集英社新書)ほか著書多数。