藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

もらう側の大間違い。

相続税が改正され、特に企業経営者や少しの土地持ちの人からの相談が増えている。
これまで「大都市圏での自宅のみ」で、ほとんど相続税の納税対象から外れていた人たちが目立つ。

何とか税収増を図りたい自民党の施策だが、実は「これまで4%程度」だった相続税の納税対象者が倍くらいに増えたところで、税収は「歳入を劇的に改善するほど」には増えない。
(大都市圏では100人に20人くらいになるらしい)
今の日本の債務750兆円(国民一人当たり600万円!)に対し、2-3000億円の税収。
焼け石に水だが、ちまたはこの話題で持ちきりである。
「騒ぎの大きさ」と「インパクト」が釣り合っていない。
そんな所を増税しても、全体の解決には何一つ結びつかないのである。

それはともかく。
「相続財産のある人」の話を聞いていて、強く違和感を感じることが多い。
それは「もらう財産は当然自分のもの」といった"尊大さ"についてである。

「これは私のもらうべきもの。だから兄弟にはあげたくない」
「私は長男なので家はこうして、会社はこうして」

親子だから遠慮がないのは当然かもしれないが、「そもそも自分では稼いでいない財物」について、それを受け継ぐ『謙虚さ』が微塵も感じられないのである。
親子だから「もらえるものは、もらって当然」といったその尊大さには驚くばかり。
別にそれに文句を言うつもりはないが、自分は「そういう気質」に人間を信用しない。

自分で汗していない財産を受け継いで「当然」と思っていられるその感覚が信用ならないのである。
これはかつて知り合ってきた「お金持ちの子息令嬢」にみられるのだが、もう完全に感覚が「親レベルの収入」に慣れてしまい、あろうことか親もそうした(高水準の生活)環境に子供がいることを推奨している場合が多い。
親が子供に贅沢をさせ、それでいいと思っているのだ。

こうして育てられた子供ほど免疫のない、不幸なものはない。
何せ「自分で財を蓄える力」はないのに、「財」が降って来るのである。
放蕩し、自分の生活レベルを落とすことができず、倹約を知らずに転落していく人は意外に多い。
すべて親の思想の産物だと思う。
子供に贅沢をさせない、ということも親の子供に対する重要な機能なのだ。

親から受け継ぐものを「私の財産、私のもの」という一人称で話す人の様子ほど傲慢なものはない。
何より気の毒なのは、後に残され、独力で生きてゆかねばならない子供たち自身なのである。
『贅沢を身につけない配慮』こそ、親が子にしてやれる最高の教育ではないだろうか。