大好きな川上さんのコラム。
まるでサバンナの草木が悠久の風にたなびくような、処理していない自然な毛並みを瞼(まぶた)のうえの肌色に発見するとき、思わず四つんばいになってオォーンと雄叫(おたけ)んでしまいそうな懐かしさがこみあげるのである。
人工的に手入れされたものの美しさ。
ゴルフ場の芝生とか、欧州の大邸宅の庭(究極はアリスの庭か)のような整然とした感じ。
そんな「作られた造形美」のようなものはどこか"完全"を追求しているようで、確かに美しい。
完全なプロポーションとか、完全な化粧とかファッションとか、そんなものの追求というのはいつの世にもある。
そして一方、確かに「野性美」といった"あるがままゆえの美しさ"もあるのである。
そして野性的、というかちょっと"腰のあたりがゾクッと"するようなショックを覚えるのはこちらの方だろう。
人が作る「造形の美しさ」は、究極的には大自然の所作には敵わないのかもしれない。
それくらい「どきゅん」という感じのインパクトを持つ野性美というのはあると思った。
(前略:女性の胸のボリュームについて)
なぜならわたしは生まれながらの迫力主義者、ただゆっさっさと歩くだけであれほどまでに自信に満ちたドヤ顔のできる充足感があるのなら、人生はさぞたくましさに満ちたものであるだろうとうらやましくもあるのだった。
川上さん。
迫力主義者、て何だろう。
そして「ドヤ顔」てそれだけですぐ意味は分かりますが、これ標準語だと「どうだ」ですよね。
「どや」というのは恐らくは関西弁でしょう。
「ドヤ顔」をしている関西人、というのは大分傲慢で象徴的にイヤな感じがするなあ。(嘆)
関西人というのは、そんな風に論(あげつら)われることを覚悟して、それでも感情表現を優先する、日本でも稀な民族なのかもしれませんねぇ。
話が逸れそれ。
で「毛」については自分も「処理していない自然な毛並み」に何かきゅんとするものがあるな、と再発見したのだった。
ムダ毛、てあまり好きではなかったけれど、自分もひょっとしたら「毛フェチ」なのかもしれない。
あこがれの太眉女子
きてるね。きてますよね。何が。太眉が。ってな感じで最近雑誌のメーク特集などを見ても、べらぼうに太眉女子が増えてきていてわたしは嬉(うれ)しい。なぜ嬉しいのかというと、これは完全に個人的趣味なので一般化できないけれども、なんていうの、まるでサバンナの草木が悠久の風にたなびくような、処理していない自然な毛並みを瞼(まぶた)のうえの肌色に発見するとき、思わず四つんばいになってオォーンと雄叫(おたけ)んでしまいそうな懐かしさがこみあげるのである。こびず、堂々と、あるがままな、そんな感じ。そう、太眉は女子の顔面に残された最後の野性なのである。
わたしは根っからの「毛フェチ」で、例えば人の顔面は眉毛しか見ていないところがある。人に会っても「あの人いい眉だったな」とか「毛並みが素晴らしかったな」とか、まずはそんな感想を持つのである。大事なのは濃さよりも太さよりも手が加えられていないこと。自然な毛並みが形づくるあの流れ、模様の素晴らしさにため息だ。どれだけ見ても飽きないし、かいた汗が眉に留まっているのを見るとき「ああ、眉が今とても機能している」と実用方面でも静かに感動するのであった。
そんなわたしは残念ながらどちらかというと薄毛で毛並みも普通、全く凡庸な眉毛である。悲しい。ついでに言うと胸も大きくなく、別に大きくあってほしいわけではないけれど、しかしものすごいボリュームの胸をお持ちの女性と道ですれ違うときなどは、やはりオオと思うのだった。
なぜならわたしは生まれながらの迫力主義者、ただゆっさっさと歩くだけであれほどまでに自信に満ちたドヤ顔のできる充足感があるのなら、人生はさぞたくましさに満ちたものであるだろうとうらやましくもあるのだった。いいなあ……。でも眉毛と胸のどちらかを望みどおりにしてくれるなら、問答無用で、まっ、眉毛なんだからねってこの話、胸は関係なかったね!(作家)