藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

誰もが全裸の時代

日米欧。
そこの三人が暗い部屋にいて、誰が一番恥ずかしいか?
(それぞれ、素っ裸、パンツのみ、Tシャツとパンツの人がいる)

元仏大統領補佐官ジャック・アタリ氏へのインタビューである。
話しのオチは、"全裸は米国"ということだった。
誰が恥ずかしいか、というよりも、「実際は誰が深刻なのか」ということが重要だ、とこの設問は投げかけている。
子の話題のオチは、「全裸なのは米国、Tシャツとパンツは日本、パンツだけが欧州。米国はほかの国の問題に光を当てて自らの問題に目がいくのを避けようとしている」というものだが、事態はより硬直化している。


これこそ、「縮む市場」の現実に直面した"先進国の初めての苦悩"ではないかと思う。
これまでは、日米欧先進国圏、あるいはbrics等に話題を振っていればよかった。
それが「全体が縮む」という事態に初めて直面している。
そうすると「パンツをはいていない誰か」を探すことは困難である。

つまり、「常にその誰か、を探すゲーム」のルールがなりたたなくなりつつある。

どの国もが財政危機に陥り、誰もが「パンツを履けなくなった事態」では、こんどは何の勝負になるのだろう。

財務が破たんしても、その国の製造業やサービス業の「根ぢから」のようなものが問われてくるだろうと思う。
その意味では、今の先進経済圏は、壮大なパーティをしているようなものかもしれない。

通貨・為替や国家の収支など、「基軸になるルール」が一旦「リセット」になれば、「元々の底力」で生きてゆくしかないだろう。

製造業であれ、農林水産業であれ、サービスや情報通信産業であれ、また「フラットな世界」が待っているのかもしれない。
そして、そんな「次」の世界でも自分たちは十分頑張れるのだ、というあたりから「リセット後の世界を歩むのだ」と思っていれば、あまり今の経済指標に一喜一憂することもない。

本当の生活力、製造力をただ身につけておこうではないか。

債務まみれの世界、素っ裸なのは誰か
 編集委員 藤井彰夫

「真っ暗な部屋の中に3人の人がいるとしよう」。

昨年12月、元仏大統領補佐官ジャック・アタリ氏に、ギリシャに始まったユーロ圏の財政危機についてたずねると、たとえ話から同氏の答えは始まった。

その部屋の中には、Tシャツとパンツ姿の人、パンツだけはいた人、素っ裸の人がいる。「そこで照明があたると誰が一番恥ずかしいだろうか?」とアタリ氏は問う。

普通に考えれば、全裸の人だが、暗い部屋の中でたったひとり懐中電灯を持っているのが全裸の人だったらどうなるだろう。その人は、自分が全裸であることを見えないようにしながら、懐中電灯の光を、他の半裸の人々に当てて恥ずかしがらせている。

現実の世界では、全裸なのは米国、Tシャツとパンツは日本、パンツだけが欧州。米国はほかの国の問題に光を当てて自らの問題に目がいくのを避けようとしている」というのが、この話のオチだった。


■米財務長官の要請は欧州の屈辱
それから9カ月の時が流れた。パンツははいていたはずのユーロ圏だが、危機はその後も収束するどころか、傷口がどんどん広がり、7カ国(G7財務相中央銀行総裁会議の第1の議題になるまでに問題が大きくなってしまった。

欧州の対応の遅れに業を煮やした米国のガイトナー財務長官は、16日の欧州連合(EU)財務相会合に異例の飛び入り出席をして、ユーロ圏各国に迅速な行動を求めた。ユーロ圏にとってはかなり屈辱的な出来事だろう。

欧州大陸では2009年末のギリシャ危機ぼっ発以降、政治指導者などから、ユーロ圏の国債などに売りを仕掛ける米国のヘッジファンドや、政府債務の格付けを引き下げる米格付け会社などへの批判が強まった。アタリ氏のたとえ話のように、米国が自らの問題を棚にあげて、ユーロ圏を攻撃するのはけしからんという論調も目立った。だが事態がここまで悪化し、ユーロの存続自体が危ぶまれるところまでくるとユーロ圏の反論も勢いを失ってくる。


■米・日も財政再建の道筋見えず
同時にアタリ氏が指摘したように米国の弱さも目立っている。今年夏には連邦政府債務上限引き上げをめぐる議会交渉が難航、米格付け会社が最上級の格付けを引き下げた。景気・雇用の回復や財政再建の道筋も見えていない。アタリ氏のたとえ話では一番まともとされていた日本も、震災復興、経済再生、財政健全化と課題は山積する。

先進国のどこも経済が停滞する今の世界は、どこが良いかというよりは、どこが比較的悪くないかという消去法で投資対象が選ばれる状況だ。このままいくと、真っ暗な部屋の中で突然、電気をつけてみると、米国も日本も欧州も実は皆、全裸だったということになるのではないだろうか。