藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

進化の渦の中で。

浅井慎平さんのコラムより。
浅井さんは1937年生まれとのことで、自分よりも30年ほど先輩である。
自分より30年前、つまり戦中、戦後を経験した人だから、明治からの「富国強兵」とまではいかないまでも、「戦後の復興」については全てを「肌感覚」でご存知である。

そういう先輩が言う。

産業革命以後の文明は、それまでの人間の世界をとんでもなく変えていったわけだけれど、いまの若い人たちは何が発明され、発見されても、たぶん驚かない。今度はこうなったのかという程度なのだろう。でも、ぼくはすこし昔に生まれたので、いつも「えっ」と驚いてしまうんだ。

これは、技術革新がもたらすインパクトがもはや日常的に起こっていることを表している。
それでも「Web革命」などと言われているが、もう動画が見られる、とかお金の決済ができる、とか「ネット」で少々のことができても「へぇ」くらいになる感覚が、今の我われの感性である。


けれど、じーっと「時代の進化」を見て来た著者は言う。

ある物理学者が「コンピューターは戦争の道具だ」と喝破したのは、すこし前のことだけれど、平和の道具でもあるコンピューターがつくられた動機が戦争だったことを考えてみれば、いや、考えなければいけない問題がコンピューターには重く深くあるはずだ。

「あるはずだ」という著者の確信は何か。
自分は、これは新しい「革新的な技術」というものに対する、本能的な"嗅覚"ではないだろうかと思う。

テレビも人々を楽しませ、世界の隅々に情報を伝えてはいるが、問題も多い。ましてコンピューターは、それを上回る複雑なエレメントを限りなく持っている。

「それを上回る複雑なエレメント」とは何か。

自分はこの言葉に直面して軽い衝撃を受けた

これである。

電波放送とか電話とか。
無線通信とか。
そうした「固有技術」によってもたらされた「個別の革命」もこれまでの時代に、産業を作り出し、非常に大きな影響を与えた。

けれど、それは「まだ技術本位」だったのだ。
周りを取り巻く技術群が「一定のレベル」を超えた今、コンピューターは「全能」になりつつある。

蒸気機関」とか「活版印刷」というエレメントではなく、"あらゆる業務に適用されるヤツ"がコンピュータ、という存在の位置づけになってしまったのである。

これまでは、その「核となる技術」がどのようなアプリに利用できるのか?という視点がまかり通った。

が、これからは逆。
どの分野にもコンピュータ(とネット)が入り込むことによって、「既存の世界の支配権」すら奪ってしまうこともあるだろう。

機械化の果て

人間がつくり出した道具が人間をコントロールしてしまうという皮肉に、ぼくはただただ呆然としている。

という著者の言葉は、半世紀前のSF作家の予言にどこか似ている。
そして浅井氏は言う。

いまさら道具の正しい使い方について思考するのは遅すぎるのだろうか。

ここまで「あらゆる業務に入り込むコンピュータ」になったからこそ、原点回帰で「利用方法についての再考」というテーマに必然性とインテリジェンスを感じるのは自分だけだろうか。

facebookでいたずらに友達を増やすだけでなく、「SNSと自分」はどう対峙すべきかを、今一度考えてみる視点はこれからのネット技術を使う上では大事なことだと思うのである。

文明の利器を前にして
ぼくが子供だった頃、テレビがなかった。

いや、ぼくの家の話じゃなくて、この世界のことなんだ。そう、世界中にテレビがなくて、そのかわりといっては変だけれど、ラジオはどこの家にもあったんだ。いまのテレビのようにね。それでテレビが生まれたときは、それはもう大さわぎだった。映画が登場したときもそれはそれは大変で、人々は驚いた。スクリーンに映し出され、直進してくる蒸気機関車に劇場内を逃げまどったらしい。その蒸気機関車が現れたときにも世界はひっくり返ったものだよ。

産業革命以後の文明は、それまでの人間の世界をとんでもなく変えていったわけだけれど、いまの若い人たちは何が発明され、発見されても、たぶん驚かない。今度はこうなったのかという程度なのだろう。でも、ぼくはすこし昔に生まれたので、いつも「えっ」と驚いてしまうんだ。

「ケータイ」が生まれたときも、もちろんそうだった。暗闇を歩きながら一人で喋っている人に出会ったときは、なにが起きたんだと呆然(ぼうぜん)となった。後になってそれが手のひらに入る電話だと知って、どうしてそんなことになったんだと思った。だからぼくはうんと昔々の人なんだ。

コンピューターがつくられインターネットが多くの人々に使われるようになって、世界が刻々と変わっていく。テレビでは人々の動き、市民の革命が映し出されている。ある物理学者が「コンピューターは戦争の道具だ」と喝破したのは、すこし前のことだけれど、平和の道具でもあるコンピューターがつくられた動機が戦争だったことを考えてみれば、いや、考えなければいけない問題がコンピューターには重く深くあるはずだ。

テレビも人々を楽しませ、世界の隅々に情報を伝えてはいるが、問題も多い。ましてコンピューターは、それを上回る複雑なエレメントを限りなく持っている。人間がつくり出した道具が人間をコントロールしてしまうという皮肉に、ぼくはただただ呆然としている。

いまさら道具の正しい使い方について思考するのは遅すぎるのだろうか。

さて、きみはどうする。ぼくはいまのところ呆然と佇(たたず)んでいるだけなのだけれど。