藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

筆記の未来は"書道"的に。

幼少時、周囲から「あいつは文房具屋か」と言われるほど、消しゴムやシャープペンやダイモ(今のテプラの前身)、ノートや単語カードなどに興味があった。
(これが対幼女、とかでなくて本当によかった、と思う。)

学生時代は、小遣いが潤沢にあるわけでもなし、また実務上必要な書籍などもあるから、少し興味は実用的な方向に振れていたと思う。
(というかあまり勉強は好きでなかったので、文具への思い入れもちょっと遠のいていたのだと思う。)

最近、偶々文具愛好家の方たちと話す機会に恵ませ、またむくむくと慕情が湧きあがる。
例えば、皆で共感し合うところは(今にして思わば)こんな感じだった。

まずハードウェアたる「ペン軸」の作り、から。

これがヤワだと、「物を書く作業」の骨格がしっかりしない。材質も、金属や難い樹脂、ボディのラインや肌目(滑り心地、握り心地)、実際に書く時の「重心の位置の取り方」など、実に多様で奥深い。これに秀でるのは今のところドイツ製、フランス製、日本製である。イタリア製は綺麗だけれど、実用的には先の三国には劣る、というところである。

次に書き心地。

これにはやっぱり幾つか因子があって、まずは「インクの滑らか度」。これは日本の"ジェットストリーム(三菱)"が頭一つ抜きんでている。低い筆圧でも滑らかに書け、これまでの油性インクに比べ30%以上も摩擦比が低い。しかも乾燥性、耐水性、耐光性にも優位だという。

次も書き心地について。

これは主に「紙」の話。
この話題は、そのまま"手帳"とか"ノート"とか"To Doカード"などにも広がってゆく話題なのだが、つまり「一定以下の書き味や薄さ」の紙は、却って筆記作業を損なう、というのが多くの人の一致した感想である。
つまり筆記具オタクは、ノートオタクでもある。

さらに広がる掛け算。

もちろんこれらの話には、ボールペンだけでなく、シャープペンシル、ジェルインクペン(水性、油性、消せるインク)、万年筆、インクペン(羽根ペン)などにも及び、さらに「それらのアイテム×紙との相性」という無限に広がる話題になる。
スターバックスに7万通りを超すメニューがある、というがここにも「無限のパズル」が存在し、多くの好事家がいるのである。

そしてその先。

そして、書くオブジェクトたる「紙」は、その宿命として「どのような形で整理され、残ってゆくか」ということとも無関係ではいられない。
デジタル技術は様々なところに活かされ、今や手書きの文字を「そのまま画像で保存」することや、「文字に変換して保存する」とか、手書き段階から「デジタルデバイス入力」をしてみたり、実にあらゆる方法が試されているけれど、まだ現在は混とんとしていると言ってよい。

究極の書道。

幼少時に自分も書道を習っていた。
座敷に正座し、背筋を立てて、硯に水を挿し、墨を摺る。

何でも当時先生から聞いた話では、この「摺る時の気持ち」で書き心地が変わるのだそうだ。
「ホンマかよ」と思っていたら、先日「摺る時の力量で墨の粒子の粒ぞろいが違う」と聞かされて驚いた。
すでに書道は始まっていたのだ。
で、何が言いたいか。

物を書く、という行為は手書きの鉛筆やペンから機械的なペンへと発展し、またデジタルが参入してワープロ、ウェブへと利用分野が広がっていった。

これが向かうのは、その原点たる「選んだ墨で、墨を摺り、任意の濃さで筆で書く」というところに行くような気がするのである。

これは多分「人の"書く"という行為への遺伝子的な欲望」だという気がするのだ。

つまり、キーボードーを手にしつつ、字体や、フォントの大きさ、フォントの種類はいかようとも選べ、いや「フォントを選ぶ」のではなく、キーボードを打つ感度をセンサーが測って、その力強さや速度に合わせたフォントを自在に描き出す、つまり「書と画」を合わせたようなものになるのではないだろうか。
ここにはさらに、音声認識技術も参入し、役者が舞台で演ずるがごとく、声の抑揚やスピード、かすれ具合なども「デジタル化」して、見事にスクリーンに描き出してくれるのである。

元々、手を使って筆記具を選んで「書く」と言う行為は「脳の思いを表現する手段の一つ」である。
文字を使えば、それがかなり正確に表現でき、それが同族の中では共有でき、意思の疎通ができる。
そんな世界が、デジタルの恩恵を受け、さらに進化して「脳内表現のツール」となるのは、そんなに遠い先のことではないだろうと思う。

そんなことを夢想すると、デジタルでもまだまだ楽しいことが出来そうで、実にワクワクしませんか。