藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人生のディレクション(2)

甘えないこと。

人生は同じ時を「同時に二回過ごして」検証することができない。
ところが、人間はずるい。

この「検証できない事柄」について、人は無限に自分をごまかせるのだ。
それを無意識にしている人もとても多いと思う。

よく「人生に後悔はない」という表現を聞くが、その多くが虚しさを以て聞こえるのは心当たりのあることだろう。
親や周囲が敷いたレールに乗っかろうとも、
アウトローと言われる道に外れようとも、
何か見えない物に向かうようでも、まっすぐ努力し続けることも、『全部、正解かどうかなんて分からない』のである。

では、そんな「海図の描きにくい航海」はどのようにすればよいのか。

○○すればいいよ、というのはそれが「正解追求方式の罠」であることは言うまでもない。

だから正解はない。
けれど、必要な戒め、というか「習慣」はあると思うのだ。

それは一日単位でも、
一週間、一カ月単位でも、
一年単位、は必ず。
三年単位でも。
十年、あるいは十二年単位も必ず見てみよう。

そんな単位で、今日の自分、今週の自分、今月の自分、今年の自分、この三年の自分、この十年の自分、を"帯"で振り返ってみること。

もちろんそれでも正解は分からない。

というか、正解は自分で作るものだから、もとより「示された軌跡」ではない。
(この境地に素直になれたら、もうこの問題とは訣別できるのじゃないかと思うが)
自分のやっていることは「これでいいかな」「本当にこれがいいかな」とジッと考えることこそが、自分の正解、つまり「得心のいった生き方」に近づく方法なのだと思う。

自分自身、過去十年単位で振り返ると、疑念の湧く「時代の帯」も多い。
けれど今さら二十代、三十代の「帯」を変えるのは不可能。
変えられるのは四十の帯(!もうあまりないやん!)からでしかない。
だからこれからのことを、結構真剣に考えるのである。

今にして思えば、正解のカツっと出る問題よりも、「柔らかく、けれども掴みどころのない正解のないテスト」のほうが余程難しい。
そしてそんなテストは、これからもずっと続いてゆくのである。
頑張って、気長に取り組もうではないの。