藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人生のディレクション(1)

戦後の義務教育の中で、自分たちは一定の基準で「採点(あるいはランキング)される」立場にいる。
一時は五段階評価はよくない、などといわれ、表現が緩和されたりもしたが、基本は変わらなかった。
その「評価制度」は社会人になっても続く。
今度は人事評価、と名を変えてやれ業績だ、勤怠だ、チームワークだロイヤルティーだ、とさまざまな指標で「採点」され続ける。

成果報酬という概念が少しでも適用されるのなら、ある程度「採点」し、配分のための根拠をつけねばやりようがない、という理屈も理解できるけれど。
年功序列型にせよ、年俸制やフルコミッションにせよ、そこには時代を反映した「それなりの工夫」は有ったのだと思う。

さて、それはともかく。

もっと大事なテスト。

かつて自分の受けた学校教育の中で「これからの進路はこういう風に考えた方がいいよ」とか「職業を選ぶのならこういうところを見てみなさい」というようなアドバイスは寡聞にして知らない。
(大体、学校の先生は生え抜きの公務員だったりするわけで、無理もないが、教育者という立場上は"その他の職業"についてのアドバイスする能力は必須ではないだろうか)

大学の受験でも「どこに行きたいの?」とか就職でも「どこ受けたいの」と聞かれただけ。
就職したてで、同期の連中が集まり「こんなの聞いてねーよ」というのは皆に共通した感覚だった。

学校教育の中で、自分たちは細かく採点されてきた。
けれども本当にもっと大事な問題に取り組んでいたのだ、という実感は薄かった。

理科系、文化系、どんなことを中心に学ぶか。
日本、欧米、東南アジア、新興国、どんな国の大学で学ぶか。
メーカー、商社、外資、金融、資格士業、どんな仕事に携わるか。

これらはそれそのものが「壮大な」人生の問題だったのである。
そして、そしてそこに"唯一の正解"はないのだ。

これが問題の所在を気付かせない、最大のステルスである。
どんな失敗をしたり、選択ミスをしたり、努力をせずとも、人生は一回きり。

当人と同じ「影武者コピー」が現れて「そうでない自分」をフォローすることなどない。
全く同じ「人生の検証」などできないのが人生なのである。