藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

甘えないこと。

昨日書いた日経の「挫折しない勉強法」からもう一つ。


どうも(このブログとかに)寄せられる相談のトーンは「いやー。資格を取ろうとしていたんですが、意外に厳しくて」とか「目指していたつもりが、あまり熱が入らなくて」という話が多い。

それはそれでよし。

けれど、あまりに挫折感の"目方"が軽い。
もうちょっと挫折は挫折らしくしたまえ、と言いたい。

もうあまりに軽過ぎて「挫折」にもなっていないと思えるである。
「ダメだったから、まあいいや。次はどうしますかねえ」とか
「ダメだけど、周囲とそれほど違わないから、あえて気にしなくてもいいですよね」
という感じ。
あるいは「どうせダメだし」ともう人生の結論を出しているようなものも。

挫折とは、一度経験したら、それこそ一旦は自らの志を諦め、またその志したところを追及して考え、反省は一通り腑に落ちるレベルにまでした上で、さらなる精神力で「その次」を考えるようなものである。

つまり、それほど「心」に影響を与える大きな「自分の影」なのである。

お手軽に挫折し、また立ち直り、というのではそもそも何の修養にもならない。
それは単なる日常の「でこぼこ」でしかないだろう。

今の時代、いろいろ言って口に出してはみるものの、もうそんなに「自分にストイックに」目標を立てたり努力したりすることは必要ない、という価値観が主流なのかもしれない。

このブログに寄せられるコメントも「私はダイエットに成功しません」とか「もっと趣味に打ち込みたいが見つかりません」とかの意見が学生さんから発せられる。
社会人からは「出会いがありません」「彼(や彼女)がいません」とか「子供が欲しいです」などなど。

ダイエットしたいのはなぜなのか。
そのために何をしているのか。
出会いがないのはなぜなのか。

そして、そのために自分は何をしているのか。

相談者の人たちと、二三、会話してみると実に「行動停止」していることに驚く。(こんな言い方ですみません)
もっと積極的になるとか、仕事に精を出すとか、友人関係に働きかける、とかダイエットする、とかおしゃれを心掛ける、とか、いくらでも「努力の余地」はある。
とりあえず、ポテトチップス片手にダイエットを夢想しても、実現することはない。
努力は人のためならず。

畢竟、それを見出して"自分から変わってゆくのかどうか"ということに尽きる。

たまに目にすることがあるが、「美人でもなく、スタイルが良いわけでもない女性(男性も)」が、見る見る輝いていく様子は、その人の積極性や人間が向上しているのが間近で見えて、何とも気持ちのいいものである。

何をやってもできないわ、といって腐っていることを思えば雲泥。
つくづく人は精神で生きているのだ、と思わせられる。
魅力的な人間は、魅力的な精神から作られ、決して外観やハードウェアだけでは決まらないのだ、と言っておきたい。
努力せぬ奴には"喝"である。

そしてまた男性にも同様の精神性が働くと思うのだが、これはまた別の機会に。