藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ゆるキャラ。

ゆるキャラ、とはもともと企業や特定の地方・街のマスコットキャラクターをアイコン化したものだという。
ひこにゃんとか、ドコモダケとか。
いわゆる「癒し系」。

先日、二十歳そこそこの就活生と話していて「自分、結構ゆるキャラ志向なもんで・・・」という会話あり。
ゆるキャラが好き、というのは「ユルい生き方が好き」という意味らしい。
ユルい、というのはつまり「あまりガツガツしない」とか「ギラギラしない」ということらしい。
彼の志望業界はマスコミ系、とのことだったがそれはともかく。

「何につけ、上昇志向は持っていた方がいいよ」などとそれらしくアドバイスしてみたものの、一人になってふと考える。

「ガツガツ、ぎらぎらしてみて」も、「のたーっ」と(ゆるキャラ)してみても、人生どれほどの違いがあるのだろうか。と。
こんなことを考えるのは、四十にして惑いっ放しの年齢のせいでもあるだろう。

けれど、自分が"今"二十歳そこそこだとして、さてどこまでギラギラできるだろうか。
受験戦争では敗北を喫したものの、就職とか、その後の会社内とか、あるいは業界内とか、そんな次元では、割合"競争の中"にいたと思う。
まあそれなりにギラギラしていただろう、と。

けれど、それが2012年の現在に、自分がその年齢だと考えると、どれほど「よし、やったるで!」と思えるかどうか、は正直疑問である。
案外先ほどの彼のように「ゆるキャラ」になっているのではないだろうか。

足るを知る世代

今のBRICS,PIGSなど新興国の人を聞いていてもそう。
二十年以上前の日本もそう。
さらに遡って、戦後の日本はもっとそうだったろう。
ぎらぎら。

それでよかった時代。
それが今は「本当にそうなの?」という時代である。
これがそのうち「これくらいじゃない?」という価値観に移行するのだろう。

これは「新しい価値観、時代観」なのである。
多分。
だから「これまでの目」で見ると、ふにゃふにゃして、到底真面目には見えない。

けれど、「そんな感じ」が次の世代に主流になる、という可能性を、とくに中年以上の世代は思慮に入れておかねばならない。

でないと「固定観念の支配」に偏ってしまうのではないだろうか。
世代間の認識差とか闘争、などはそうした「自分の過去の経験値」などがその中心に居座っていたりするものではないだろうか。

自分たちの十代のころ、「勉強する訳を探しています」というと変人だった。(少なくとも表向きは)
今は「そういうもの」を探してみるべき時代かもしれない。
最近、三十、四十代でも「働く理由」などについての書籍が売れている。
そういう時代に差し掛かっているのだ。

ということで、これから社会に出る若者は、大いにそうした「そもそも論」についても逡巡し、仮説なりとも自らの選択と決定をしながら、また新しい価値観の世界へと踏み出してゆくのであらう。

ということで、人生相談はお終いにした。
乾杯。ちん。