藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

人生の過ごし方。-その二。帆を上げよう! 舵を取ろう!

さて。

人生は自分の思いの方向に舵を切れるし、思ったよりも「自由度」は高い。
そう思えたら、今度は最大の課題である「目的地を探す」ということになる。
(永遠の目的地かどうか、そんなことは分からなくとも)

そう実は、自分の経験から言わせてもらえば、人生の目的地は、都度都度変わる。
平凡だが平和で「一子を設けるような家族」が目的の人が、ある時期を境に世の中を憂い、「政治家に打って出る」というようなことはいくらでもある。
東大卒のエリートが、官庁に勤めたのち、一身をボランティア活動に捧げる、とか。
堅実な大企業の勤め人が、新興宗教に傾倒したり、突然「脱サラ」を志す例などごく身近な話でもある。
要は「自分にもそんな大変化の機会はいつでもあるのだ」と予め思っていればいいのだ。

そして、いま今、「ただ漂流」するのではなく、「今の自分の目的地」をともかく考えてみることだろう。
ともかく大企業に就職する、とか
資格を取る、とか
結婚して家庭を持つ、とか
起業してみるとか。
今自分が「これ」と思えるものならそれでいいと思う。

まずは"帆を上げる"ことである。

だが、日々海図を眺めながら「その先」を考えるのが船長の務め。
「このままいくのが良いのか否か」を毎日考えながら、時には進路を曲げることを決断する。
航海とはそうしたものである。

自ら帆を上げず、櫂も漕がず、ただ流れのままに漂流しているのは勿体ない。
たまたま「漂着したところが人生の運命」という達観は、さんざん自分の力で「櫓を漕いでから」の境地でなければならないと思う。

国の経済が沈む、とか高齢化が進む、とかマイナスの話題に晒されていると、特に若い世代の人は厭世的になるだろう。
いっそ漂流していたくもなると思う。

でも実はそれほど捨てたものでもない。
それほど悲観することもなく、自分たちの道は、まだまだ自分たちが切り開いていける余地がある。
実はそういう「視点」を持つか持たないか、ということだけなのである。
自分の船の舵、は必ず「自分が握って」いるのである。