藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

開放する強さを。

宮城県が性犯罪の前歴者へのGPS化を諦めたという。
理由はコスト。
これはコストだけを理由には中止してほしくない気がするけれど、個人情報について改めて考える。
ちょっと考え方を変えてはどうか。

自分たちは若いころから、いろんな人たちに出会い、時には叱られて今に至る。
自分たちが生きてきた形跡を、履歴書のように、しかしデジタルで保存してオープンにしてはどうだろうか。
何もfacebookで不特定多数の人に開放する必要はない。
けれど「一定に親しく付き合う同士」でデジタル履歴を活用すれば、親交のスピードはとても早まるに違いない。

性犯罪やDVの履歴があれば、その履歴もあえて晒してみる、というのは無茶な事だろうか。
そういう過去の傷を"隠してしまえ"というところに何か矛盾はないだろうか。

誰しも経験があるだろうと思う。
未成年で繁華街でタバコを吸っていて補導されたとか、友人が所属していた暴走族の集会でまとめて捕まったとか、いろんな過去があるけれど、できるだけ記録に残して解放できるようにしておく。

多くの人は噂話好きで「あの人、こんな過去があるらしいわよ」というのはよく聞くが、そんな「陰的な行為」はオープンにすることでカラッとした雰囲気にできるのではないだろうかと思うのである。
また自分は、そうして「過去に対してオープンに立ち向かう人」にむしろ協力したいとも思う。

逆に、そうした個人の過去の関する話が興味本位でヒソヒソと交わされるのは実につまらない。
もう別に過去の犯罪歴とか、賞罰とか、異性関係とか交友とか、「ある程度」のものはむしろオープンにしてしまってはどうかと思う。

自分の学生時代、国籍差別に悩んでいた韓国籍の友人は、今はEU企業のグローバル担当CEOになっているが、そういえば彼は若いころから開放的で人望が厚かったのを思い出す。
結局彼の人柄が本道だったのに違いない。

相手との付き合いを、早く広く深める意味でも、「自分のプロフィール」はもっとオープンに綴られるべきではないだろうか。

自分が思っているほど「秘さねばならぬ情報」は少ないのではないだろうか。