藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

これが今でしょ。

糸井さんのエッセイより。
糸井さんの感性には、時に自分の肉親とか、中学の先生とか、父親のように同期することがある。
「自分の感性に似ている」とは口はばったいけれど、そう感じる人は多いのではないだろうか。
そうした感性を日々テキストにして、もう十何年も発信しているのはweb上の宝物である。

自分もそうしたことをできれば、と密かに思っていることに気づかされるのである。
もう何十年も前から「暦」とか「キリ」とかいうものに疑問を感じていた。
例えば「大安吉日」とか「月初め」とか、そして一週間、とか10日、二十日、とか果てはお盆とか正月とか、創立記念日とか誕生日とか記念日とか、なにかそうした「日付の意味」についてはずーっと懐疑的なものを感じていた。

そもそも今の暦って、そりゃあ優れた人の叡智だと思うけれど、そもそも「その暦と自分の振る舞いを連動させること」はどこまで意味があるのか、とか、さらに「十進法で数えた区切り」とか「世紀という単位の意味」については、到底「ただの数え方」にしか過ぎす、そんなものと自分たちの幸運度を結びつけて考えるのは、到底ナンセンスに思えて仕方がない。

むしろそんな暦を気にするよりも「今でしょ!」と思うのだ。
数字が良いとか悪いとか。
キリが良いとか悪いとか。

そうした懐古趣味的な感性よりは、「すぐ取りかかる習慣」を大事にしたい。
そしてこれって、何も特別な才能が要らない、とっても大事な技なのである。

・「思い立ったが吉日」という考えは、大発明だなぁ。
 なにか始めようとか、やめようとかするときに、
 ついつい、人は、月のはじめだとか、
 10の倍数だとか5のつく日だとか、
 目立つ数字の日を選ぼうとするものです。
 むろん、ぼくも、そうすることが多かったです。
 
 でも「思い立ったが吉日」という考えは、
 「切りのわるい数字でも、用意ドンだぜ」と言ってます。
 ちょうどいい日を待っているうちに、
 いろいろ条件やら都合が変化してきて、
 「やっぱりやめちゃう」理由がどんどん出てきます。
 そのうちには、ぐずぐずしてしまって、
 「はじめない、やめない」になりがちなんですよね。
 
 そういえば、と思い出すのは、
 ぼくが禁煙をはじめた日です。
 2003年の8月2日です。
 このはんぱさに、かえって本気を感じます。
 実際、ここからじたばたしながらはじまった禁煙は、
 そのままいまに至っているわけですから。
 
 さらにそういえば、と思うのは、
 毎日、切りのいい日にも、はんぱな日にも、
 おぎゃーおぎゃーと赤ん坊が生まれています。
 まことに、それでいいのだ、という感じですよね。
 生まれたときから「思い立ったが吉日」なんですね。
 (あ、死ぬのもそうでしたね)
 
・「7777」も「9999」「4875」も「6982」「1234」も、
 ほんとは、ぜんぶ同じようなものなんです。
 「7777」や「9999」や「1234」が、
 特別なものに見えてしまうだけなんですよね。
 それは、壁のしみや、空の雲が、
 カエルの顔やら羊やらに見えちゃうのとよく似てます。

 「なんでもない日おめでとう。」というのは、
 とにかく毎日、どの日も「いいんじゃない」ってこと。
 おもしろい壁のしみや、夢のような空の雲は、
 意味なんかない「おたのしみ」として、楽しみましょ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あまちゃん』終了後の世界をどう生きるか、考え中です。