藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

就職相談−その百。

この時期特有、学生さんの就職相談より。

よく「自分はこれで飯を食ってきました」とか、
「同じ釜の飯を食う」などと言う。

けど、居酒屋でウェイターをしていても、
テレビ局でアシスタントをしていても、
会計事務所で補助者をしていても、
劇団で事務員をしていても。
どれも、それはそれで大変なのである。

「お手伝い」ではあっても、自分が「それ」で飯を食う、ということは、「その道のプロの末席」に就く、ということである。
「そこ」に就いたからには、もうプロの端くれである。
だから「アマチュアですから」という抗弁はもう通用しない。

コンビニの店員であれ、「そこ」で飯を食っていれば、その人は「その道のプロ」足らねばならないのである。
「こういうプロ意識」があるかないか、で随分「その人の職業のステータス」は違ってくるのではないだろうか。
”実際にどれほど高度な作業かどうか”ということとは別に、「その仕事がどれほどのプロ意識に基づいて履行されたかどうか」というのは重要な論点ではなのである。

問題は対象ではない

で、何が言いたかったのかというと、そうした「プロ意識こそが、その職業をプロたらしめる」のではないかと思うのである。

プロ意識なき者にプロフェッショナルなし。
といったところか。

職人とか、ホワイトカラーとか、農業漁業とかサービス業とか、関係なく。
アルバイトか社員か、管理職か経営職か、オーナーか雇われか、ということすら関係なく。
「今のこの仕事にプロとして遇する」という意識こそがその人と、そして「その職業」を照らし、意味あるものにしているのである。

魚が好きで、日々勉強し、季節感を養いながら鮮度の良い魚を仕入れ、販売する、あの商店街の魚屋のオヤジは、間違いなくプロの仕事人だったと思う。

どんな職業に就くのでもいい。
どんな職種でもいい。
(先日、女性に性風俗業について聞かれたけれど、これとて同様だろう)
その仕事に対して、「提供する側のプロ」として当たれるかどうか。

ということが成功の鍵を握るのではないだろうか。
要するに意識の持ち方なんである。