藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

疲れと寂しさと。

明大・諸富教授のコラムより。
「半分あきらめて生きよう」というテーゼは、本当に半分あきらめて絶望せよ、ということではなく「そんな閉塞感からは抜け出ていいんだよ」というメッセージである。

食べていくために、仕事をする。それでも時給換算すると生産性は低い。長時間働くことでなんとか国内総生産(GDP)を上げている現実があり、それが忙しさの理由です。

40〜50代の人のカウンセリングをしていると、生きしのいでいる人が多いと実感します。うつ病人格障害、引きこもりが社会問題になっていますが、それらの根っこも同じで、疲れと寂しさがあるのではないでしょうか」

生き凌ぐ。
この長寿社会で、戦後最も裕福であろう時代に。
「生き凌いでいるひと」は何を生きしのいでいるのか。
それは「心」である。

諸富氏は「自分らしく生きられない時代」と表現しているが、そうすることが許されない、というよりはそうすることが(自分と周囲を比べて)異端化であり、脱落者である、というような恐怖感を持つ「均質化への強迫観念」が正体ではないだろうか。

体裁を気にして、人と同じ職業とか生活スタイルを求めて、「その土俵で生きる」ということしか選べない。
"自分がない"と言ってしまえばそれまでだが、高度成長期が本格的に終了した゛「停滞の時代の生き方」がまだ定まっていないということだと思う。

諸富氏の言う「あきらめ方」がどのようなものか。
ヨーロッパの元気な田舎町のような、ローカルに根ざし、何代もの親子が出生地で生きていくようなスタイルだろうか。
それとも、改めてガラパゴス・ジャパンでこれまでやってきた日本人がいよいよ東南アジアへと目を向けていくのだろうか。

数十年単位で、定点的に観察し考えて行きたい問題である。
そしてそんな考察を若い人に伝えていくのは、年長者の大事な仕事ではないだろうか。

一億総疲労社会 「半分あきらめて生きよう」
諸富祥彦・明大教授に聞く2013/10/5 16:31ニュースソース日本経済新聞 電子版
諸富祥彦・明治大学教授
 大学で心理学を教える傍ら、カウンセリングにもあたる。仕事や夫婦、子育てなどに関し、中高年を中心に人々の悩みに耳を傾ける。その経験から説くのはあきらめることの効用だ。
 「東日本大震災以降、絆やガンバローの大合唱が続く世の中です。でも、ガンバレと言われると、よけいにしんどく感じる人が実際にはいる。それだけ追い詰められてしまっているのです」
 「現代は一億総疲労社会だと思います。疲れと寂しさに覆われています。モンスターペアレントやクレーマーも実はその表れではないでしょうか。寂しさや、疲れを抱えつつ、自分はそうだと言えないから、他人に文句をつけて、解消しようとしているのだと思います」
 少子高齢化や晩婚・晩産化が進む。結婚せずに1人で生活する人も増えている。
 「普通に結婚していても、みなどこかに孤立感や寂しさを感じているのではないでしょうか。食べていくために、仕事をする。それでも時給換算すると生産性は低い。長時間働くことでなんとか国内総生産(GDP)を上げている現実があり、それが忙しさの理由です。40〜50代の人のカウンセリングをしていると、生きしのいでいる人が多いと実感します。うつ病人格障害、引きこもりが社会問題になっていますが、それらの根っこも同じで、疲れと寂しさがあるのではないでしょうか」
 「自分らしく生きることが許されない社会だと思います。戦後の高度成長期は、米国に追いつけ追い越せできた。右肩上がりで目標も明確なため、多少のごまかしがききました。でも、今は違う。目指すゴールもはっきりせず、戦後からの流れを単に惰性で続けているだけのように思います。自らをだましだまし鼓舞しているのだから、お前もがまんすべきだ。そんな考えが現代社会にはびこる人並み意識や横並び意識につながっているのでしょう」
■心が未成熟な中高年が少なくない
 アンチエイジングが叫ばれ、とかく若さが重視される昨今。若づくりできれば、自分の内面をもコントロールできる、と勘違いしている人が多いと指摘する。
 「分析心理学で有名なユングは40歳前後を『人生の正午』と位置付けています。20代はパワーに満ち、この先に何かがあると信じている。だから多少の壁も乗り越えられる。そのパワーが落ちるのが40〜50代です。同時に自らの人生をトータルに眺められるようになり、ほころびにも気付きます。夫婦の関係もそう。ふと立ち止まり、この先も婚姻関係を続ける意味は何か問い直すことになるのです。人生のあらゆる領域にそれは及んできます」
 「悩むべきことを悩み、その上で、成熟した大人になるのが本来の姿ですが、今はそれが難しいように感じます。若さの維持にベクトルが向き、成熟の方向へは向かっていない。それだけ自分の内面の変化にしっかり向き合えていない人が多いということではないでしょうか。見た目も若く、本人はいたって元気でも、周囲の目にはどこかむなしく映ります」
 「ある時期が来たら立ち止まり、自分のこれまでを振り返ることが必要です。それまでの人生には克服し難い悩みや苦しみがあったはずです。なぜその時、悩みや苦しみが自分にもたらされたのか、その意味を問うことが重要です。『つらいのはその出来事ではなく、その意味が見いだせないからだ』とはニーチェの言葉です。意味さえ見いだせれば、人はある程度、苦しみに耐えられます」
■半分あきらめても、心の底を満たして生きる
 テレビドラマ「半沢直樹」が人気を呼んだのは、主人公の生き様にはっとした人が多かったからと分析する。
 「上司に迎合し、折り合いをつけることだけうまくなると、むなしさが募ります。本気で生きるとは、魂の深い部分が満たされる生き方です。半沢直樹の生き方を見て、自分はこのままでいいのかと自省し、本気で仕事をする意味を思い起こした人が多かったのではないでしょうか」
 「カウンセリングした中にこんな男性がいました。バリバリの会社人間でしたが、息子は不登校。奥さんが息子に暴力を振るわれ、ある時、男性も息子に蹴られ、入院したのです。彼は病床で自分の人生を振り返ったそうです。それから会社を辞め、牧師になりました。俺の人生とはこういうことだったのか、と気付いたのがきっかけでした。だれにも起こりうることです。本気で生きていると、悩みや苦しみの意味がある時、フヮーと立ち現れてくるのです」
 「本気で生きるほど、実はあきらめも増えるものです。自分の思い通りにはいかないのが世の中だからです。人生には光もあれば、闇もある。希望もあれば、絶望もあるのです。灰色なのが人生です。まだまだダメだと自分を追い込んでいくと、疲れや寂しさが増し、時に心の病を招きかねません」
 「あきらめることは、頑張らないとか、力を抜くこととは違います。手抜きして生きると、心の奥底が充足されることはありません。ある程度、自分を追い込むことは必要です。でも、ハッピーエンドにならないとわかったら、あきらめることが肝心です。いつまでも悩み、人生の輝きだけを追い求めたり、白か黒かでしか物事をとらえなかったり。そんな心が未成熟な人が少なくありません」
 「チラリと希望を持ちながら生きることが、半分あきらめて生きるということです。あとは『あれだけ頑張ったのだから、もういいんじゃない』と言い合える関係性があるといいですね」
編集委員 堀威彦)
 もろとみ・よしひこ 明治大学文学部教授。教育学博士、臨床心理士。1963年福岡県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。千葉大学教育学部助教授などを経て現職。日本カウンセリング学会理事なども務める。著書に「あなたのその苦しみには意味がある」「人生を半分あきらめて生きる」など。