藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

センサーを立てよう。

時代の流れは常に「連続的に」起きている。
"Nature doesn't leap."
今の時代にこうして生きていても、そんな「流れ」を肌で感じるのはなかなか難しいものである。
インターネットの隆盛もついここ十年のことだが、過去に何が流行り、今は何が旬で、そしてこれからどうなるのか、というのはいつの時代も予測が難しい。

Facebookが旬を過ぎた?という記事。
もう使わなくなってしまったけれどいわゆる「卒業年鑑」としての役割以上にFacebookに何があるのか、ということは自分には分からずじまいだった。

 これらのサービスは人のつながり以上に、情報やその集合体とその流通を重視しており、Facebookのつながりが中心にあるモデルとは異なる。人の関係性から情報へ、トレンドの主役の移行が起きているとの仮説を考える事ができるだろう。

という分析も一理あるけれど、それにしてもまだネットコミュニティは「伝播の途中なのだ」ということを改めて考えてしまう。
以下の考察も。

もうひとつ別の側面は、日本人からすると実感の湧かない話だが、現在もなお、デスクトップで使うインターネットからモバイルで使うインターネットへの移行期間であるということだ。そして、グーグルもフェイスブックもデスクトップ時代のインターネットサービスであり、グーグルはそのコンプレックスを解消するためにAndroidで覇権を取ろうとしている。

もうSNSもこれで終わりか、とつい思ってしまうが、そうなのだ。
まだモバイルの世界がどうなるか、は熟成していない。
ひょっとしたら「総監視社会」になる可能性もあるし、それが究極の安全な世界かもしれない。
自動車の自動運転が主流になったら交通事故はなくなるだろうか。

これからの数十年でどこまでの変化が起きるか? についてはSFを手繰るのが一番の方法だと思うけれど、つくづくそんな「時代の風を感じる力」を意識しておきたいものだと思う。
人生は振り返れば、あっという間だということが最近何となく分かるようになってきた。

フェイスブックはもう「旬」を過ぎたのか? 東洋経済オンライン 2月1日(土)8時0分配信
 本連載は、GAFAに関するトピックをひとつないし複数採り上げながら、米国・シリコンバレーを中心とするIT事情を定点観測的にお伝えしていく。今回はフェイスブックを採り上げる。フェイスブックは2013年末からその不調が伝えられている。特に若い年齢層がフェイスブックからほかのサービスへと移行しているという論調だ。フェイスブックの反論と、展望について考える。
 米国では、フェイスブックに関するとんちのようなやり取りが行われていた。ユーザーと入学者数が数年以内にいなくなるという不気味な話である。

【詳細画像または表】

プリンストン大学の研究チームが発表した論文は、フェイスブックは今後3年以内にユーザーベースの80%を失うだろうと指摘した。筆者のジョン・カナレラ氏とジョシュア・スペシュラー氏は、ソーシャルネットワークサービスに対して、疫病の伝搬と収束のマッピングに用いられる方程式を当てはめた。検証としてMySpaceのブームとその終焉の予測を用いたとのことだ(関連記事:Fast Company )。これに対しフェイスブックは、同社のデータサイエンティストらがGoogle Trendsのデータを利用した調査によると、プリンストン大学の入学者数は2018年までに半減し、2021年までにゼロになると発表している。もちろん、このデータが極めて非科学的であることを承知のうえでの発表であるが、プリンストン大学の研究も同様に非科学的であるという意見をアピールする、しゃれたジョークだった(関連記事:Tech Crunch )。■ Facebookのコンプレックスとは

 プリンストン大学Facebookの研究の科学性についての検証はさておき、Facebookの不調についての指摘が面白がられる経緯もある。2013年末、同社の決算発表の場で、CFOのデビッド・エバースマン氏が、日中のユーザー数の減少を認め、とくに10代前半のユーザーが減少しているとの指摘を認めており、そうした証拠となるデータには注目が集まりやすいからだ。

 Facebookが若者に人気のあるモバイル向けサービスSnapchatを買収しようとして断られたという経緯も記憶に新しい。写真が保存されずによりインスタントなコミュニケーションを実現するツールは、固定的な関係性とその結びつきを強めていくことを薦めるFacebookとは対照的だ。より活発な若いアクティブユーザーを囲い込みたいFacebookからすると魅力的に見えるのかもしれない。

足下のビジネスである広告モデルにおいて、Facebookは成果を上げている。Facebookは2013年第4四半期に、広告のクリックは史上最高を記録している。Adobeのレポートによると、Facebook広告のクリックレートは前年の365%増となった。またKenshoo Socialによる調査でも、前四半期と比べクリック数は66%増えている。同社の数字だけ見れば、非常に好調だ(関連記事:Mashable)。
こうした結果を反映するように、1月29日に発表されたFacebookの四半期決算は過去最高を記録した。売上げは前年から10億ドルを積み増して25億8500万ドル。特に目立つのが、急速にモバイル比率を高めている点であり、広告収入に占めるモバイルの割合は53%と、半数を上回った。月間ユーザー数は12億3000万人で、このうち9億4500万人がモバイルデバイスからのアクセスとなる(関連:Mashable)。 モバイル利用と収益を急速に拡大させているFacebookは、その成果を十分に得ている。しかしそれでもAdobeのレポートでは、PinterestTwitterとの比較において、Facebookよりもはやいスピードで成長しているとの指摘をしている。Pinterestは画像の収集という直感的な方法で、またTwitterは140文字+αというシンプルな情報単位で、それぞれ情報発信を行うタイプのサービスだ。

 これらのサービスは人のつながり以上に、情報やその集合体とその流通を重視しており、Facebookのつながりが中心にあるモデルとは異なる。人の関係性から情報へ、トレンドの主役の移行が起きているとの仮説を考える事ができるだろう。

 コミュニケーションはよりインスタントな方向へ、メディアは情報が主役へ。さらに主力となるアクセスデバイスはモバイルへ。もちろんFacebookもキャッチアップする事ができるが、トレンドは足早に、新しい方向へと動いている。


■ 「自分らしさ」「つながり」の次のモデルとは? 
インターネットの世代について、最近、考えることが多い。さまざまな分類があるが、たとえば5年刻みという時間で考えてみると、インターネットの普及が始まった1990年代後半、ビジネスによる変革と検索による世界が規定された2000年代前半、パーソナルメディアが花開き、ソーシャルメディアが台頭した2000年代後半、そしてインターネットがモバイル化した2010年代前半、という現在だ。

インターネット上に個人が登場し自由に振る舞えるようになり、その存在をお互いに認知し閲覧し合えるようになった。それがフェイスブックの現在の繁栄を作ってきた。人間関係に関連するさまざまなツールを置き換え、さらに「つながり」を明示的に記述した。

この先に訪れるのは、より自分らしく振る舞うこと、すなわち「Me」へのフォーカスとエンパワーという世界であり、ひとつのコミュニティではなく一人ひとりがコミュニティを持ち、それが相互に作用する世界となるだろう。
その姿は、大きなひとつの囲いの中でつながりの線を増やしていくフェイスブックに対して、自分の「サークル」を持つスタイルを取ったGoogle+のイメージに近い。もちろんGoogle+フェイスブックほどの影響力を持たないことは事実だが、デザインの思想としては納得感の強いものといえる。

もうひとつ別の側面は、日本人からすると実感の湧かない話だが、現在もなお、デスクトップで使うインターネットからモバイルで使うインターネットへの移行期間であるということだ。そして、グーグルもフェイスブックもデスクトップ時代のインターネットサービスであり、グーグルはそのコンプレックスを解消するためにAndroidで覇権を取ろうとしている。

筆者がたびたび指摘しているのは、モバイル時代になればなるほど、サービス名は明確な行為の名前、すなわち「動詞」になるべきというアイデアだ。「Google」はウェブ検索するという明確な動詞になり辞書にも載った。その動詞をモバイルでも実現できるよう、グーグルは努力している。「Instagram」はスクエアでイケてる写真を撮って共有すること、「Twitter」は140文字での情報発信、「Uber」はタクシーを拾うこと、「LINE」はスタンプ付きのメッセージ(トーク)を交わすことだ。

では「Facebook」は何の動詞になっているのか。つながること?  写真を共有すること?  「いいね」すること?  ギフトを贈ること?  どれも機能のピースではあるが、これといった明確さがない。

もちろん現在ある世界最大のSNSという資産は最大限に生かすべきだし、大切にしていくべきだ。こうした資産を背景にしたからこそ、同社のメッセージ機能は、誰かとコミュニケーションを取るうえでメールの便利さを上回っている。

しかし「Facebook」を動詞化するためには、何らかの大きな転換が必要になっているのではないか。たとえば自分らしさを最大限に拡張する自分の居場所。こう考えると、すでに縮小してしまったマイスペースというフレーズが浮かんでしまうので、この例はあまりよくないのだろう。
松村 太郎