藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

今の当たり前、も疑って。

糸井さんのブログより。
「けっこういい」という表現が傲慢じゃないの?という話。
まったくそう思う。
「けっこういいね」というその言葉の発露そのものにまったく「お前は何さまなの?」という疑問を感じるのである。
偉そうなことをいうな、と。

糸井さんの言うように、もうあらゆるところに「けっこういい」という有難い時代に自分たちは生きていて、その「ありがたみ」を分からずに「いいね」とか「いまいちだね」とかいうな!というハッとするような提言なのである。

恵まれれば恵まれるほど、自分たちはその「土台についての敬意」を失う。
お坊ちゃんがそのまま「世間知らずのボンボン」になるのは世間ではもう通例ではないか。
先輩や、また時代が便利にしてくれていること、
自分たちや自分の国が(いろんな経緯で)恵まれていること、に「胡坐をかいて」はいけない。
それは「お坊ちゃん化」の始まりであり、結局足元を危うくしてしまう原因になるだろう。

「常に己を知ること」というと宮本武蔵みたいだけれど、やっぱりそういうことなのではないかと思う。
「今が当然」と奢った途端に足元がグラグラしてしまうものなのだ。
借り物は借り物でしかなく、自分で積み上げたものでしか、自分は語れない。
毎日目まぐるしいけれど、忘れたくないスピリットなのである。

・「けっこうかわいい」とか、「けっこうおもしろい」、
 「けっこうイケメン」、「けっこうおしゃれ」などと、
 「けっこう」が付く表現は、とても多くなってる。
 
 街を歩いていると「けっこうかわいいこ」だらけだ。
 「けっこういい」店が並んでいて、
 「けっこうつかえる」手軽な道具が売ってて、
 「けっこう親切な」店員さんから、
 「けっこうお買い得」な値段で買いものして‥‥なんて、
 なんと言うか(*)けっこう「けっこう」づくめなのだ。
 
 だいたい、こういうこと言う場合は、
 その「けっこう」だらけの時代とか、状況とかについて、
 「おもしろくないことだ」と展開されることが多い。
 ぼくも、ついつい、そういうことを言おうとしたりする。
 今回も、実は、「けっこうなんとか」について、
 ちょっと文句を言っちゃおうかしらねなんて、
 思っちゃってたんですよぅ、お客さん。
 ところが、(*)の部分を書いてるところで、
 「書いてるおまえは何様じゃい?」、と思ったわけです。
 「けっこうよろしい」に文句言うなら、
 ほんとによろしいものって、なんなんだよ、と。
 書いてるぼくが、「けっこういい」以下じゃないのか。
 という気になってきたのでした。
 
 世の中に、「けっこういい」がたっぷりあるって、
 かつては、そういう時代を夢見てたんじゃなかったか。
 もっと、全体的に貧しかった時代に、
 あちこちに「すんばらしい!」じゃなくてもいいから、
 みんなのところに「けっこういい」が行き渡ることって、
 ひとつの理想として語られていたんじゃなかったのか。
 そして、それがいざ実現してしまったら、
 その「かつての理想」に悪態をつきはじめている。
 まったくねぇ‥‥って思ったんですよ、じぶんに対して。
 
 ひとまず「けっこういい」を、肯定してしまって、
 その上で、「もっといい」とか「おもしろい」について、
 じっくり真剣に考えて静かに提案するくらいの、
 「けっこうへの敬意」がなきゃいけないんじゃないか。
 そんな大転回をしてみたくなったのでありました。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ついでに、永井豪先生の『けっこう仮面』も注文したのよ。