藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

実は自然体で

糸井さんのブログより。
人は期待されると頑張る。
およそ何も期待されていないけど、ただひたすら黙々と、というのが究極だけれど、他人の関与というのは無視できないものがある。

まあ「喜んでくれる人がいるから頑張れる」というのは我われの素直なモチベーションでもあると思う。
けれどそれが「期待ありき」になると本末転倒。
期待にこたえることが"必須"となって自己目的化するのである。
こうなるとたちが悪い。

本来の目的も差し置いて期待ありきで「もうやるしかない」とばかりに破たんに向かって突き進むのはやくざ映画によくあるシチュエーション。
それはそれで熱いものは感じるけれど、日常そういう風な動機でいちいち動くものではなく、期待も失望もやっぱり「本筋の目的」から生まれてくるものでなければならないと思う。
誰だって喜ばれるからやりたい、という気持ちはあるけれど「やるから喜ばれるのだ」という順番は間違わずに自分に持っていたいものである。

いちばんいいのは、期待されてようがされていまいが、 
 できることをできるだけやる、ということだと思う。
 期待されるどころか、バカにされているくらいの場所で、
 強がらずに、たいしたことのないことを、させてもらう。

・「強がり論」みたいなものはないものかな、と思った。
 いろんなめんどくさいことは、ほとんどが
 「強がり」によって生まれてるような気がする。

 ドラマなどで見ているかぎりは、子分たちの手前、
 強がらざるを得ない親分というのが出てくる。
 ギャング映画であろうが、政治抗争であろうが、
 目下の者たちのいないところでは、親分同士は、
 あんがい、落ち着いて交渉していたりしているものだ。
 そこらへんを考えると、「強がり」の原因というのは、
 「組織」内部の駆け引きであるとも言える。

 上にいる立場だと思うからこそ、強がっているのかぁ。
 なんか、そういえば、そんな気がしてたんだよなぁ。

 いやいや、でも、母親の前で子どもが
 「強がり」を見せるなんていう例もある。
 子どもは親分でもないし、母親は子分ではなさそうだ。
 ここでの「強がり」の原因は、組織の問題じゃない。

 さらに考えると、どういう場合にも、
 「期待」が鍵になっているのではないかと思えてきた。
 子分に親分は、母に子は、期待されている。
 少なくとも「期待されていると思いこんでいる」から、
 その期待に応えようとして強がるのではないだろうか。

・昨日、直観的に思ったことをツイッターに記した。
 <他人に必要以上に期待されていると思うと、
 見栄を張ったり知ったかぶりをしたり、
 嘘をついたり、強がったりもしたくなる。
 期待には、よく洗って泥を落として小さくしてから
 応えたいものだ。たいしたことない者らしく。>

 期待されていると、思いすぎるのはよくない。
 期待の多寡を見積もるのは、むつかしすぎるから、
 量らないほうがいいのではないかと、ぼくは思っている。
 いちばんいいのは、期待されてようがされていまいが、 
 できることをできるだけやる、ということだと思う。
 期待されるどころか、バカにされているくらいの場所で、
 強がらずに、たいしたことのないことを、させてもらう。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
謙虚というのとはちがうんです。もともと低いのだからね。