藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

批判に靡(なび)かず。

正論はどこまでか。
全国初の試みで生活保護費の一部をプリペイドカードで支給する試みが物議を醸している。
というか必ず推進派と反対派に分かれている。
自分個人としては、自分自身が給付を受ける立場になったとすれば、ある程度の「使途制限」があっても仕方ないな、と思うのだがそれはともかく。


こういう議論では反対派に回る方が楽である。
というか批判しているだけでも「それなり感」がある。
もっと言えば、悪口ってどこか楽しい。
「あんなのダメに決まってるさ」「だよね」と言っている二人は"いかにも"それについて考えている風な気持ちになれるのじゃないだろうか。
したり顔。
今だと「どや顔」とか言うのだろうか。

けれどよくないだろうこととかダメな点をあげつらって「何かに参加したつもり」になってはならない、と強く思う。

『代案なき批判はご法度』は社会人の基本ルール。鉄則である。

けれど巷には(マスコミでも)しばしば批判先行の傾向がある。
自分も日常、しばしば経験するけれどそれに靡いてはいけない。

生活保護は現物支給されるべきではない」
「なぜか?」←いろいろと理由はある。ネットでもそれほどには深い議論は見当たらないけれど。
「そもそもの生活保護の根拠って何か?」

「それは憲法の基本的人権の保障なら、それは具体的にはどんなことだろうか?」そしてそれが
「 人間らしい最低限の生活を国に保障してもらう権利」 ならばその「人間らしい最低限度の生活ってどういう生活だろうか?」そして、
「そもそもこの憲法の規定って今の世の中でも正しいよね?」とか全体を追求して考える必要があると思う。

自分が生活保護の給付を受けるなら、あるいは自分が自分の収入から生活保護を支出するならどのような概念になるだろうか。
税制にせよ社会保障にせよ、与党と野党が批判合戦を繰り広げていて、それが自己目的化していてはいつまで経っても正解は出てこない、ということが先の選挙でも目についた。
国会での与党と野党が互いを「ともかく批判してやろう」という芝居臭さ感じている人は少なくないのではないだろうか。

働き手になる人と、老人子供や働けない人とが共存するという社会の中で、給付金とか保険とか個別の制度をいじくり回しても問題は全体的にはなかなか解決には向かわない。
"それじゃ、どうしようか?"という大前提で課題を深めないと、ただただ批判の砂嵐が吹くばかりだと思うのである。
(つづく)

生活保護費>一部プリペイドで支給、橋下市長に撤回求める毎日新聞 1月8日

大阪市が今春の運用開始を目指す生活保護費の一部をプリペイドカードで支給する全国初のモデル事業について、法律家らでつくる「生活保護問題対策全国会議」は8日、厚生労働省で記者会見し「金銭給付の原則に反し違法」などとして、橋下徹市長に撤回を求める要望書を来月にも提出することを明らかにした。モデル事業は違法性があるほか▽プライバシー権と自己決定権を侵害する▽使えない店があり日常生活に支障が出る−−などの問題があるとしている。

ヘイトスピーチめぐり怒号の応酬】橋下市長、桜井誠氏と面談

 事業は、希望者を対象に飲食や日用品の購入などを目的とする生活扶助費のうち月3万円をプリペイドカードで支給するもの。利用明細で支出内容を把握し、過度の飲酒やギャンブルへの支出を防ぐ狙いだが、弁護士の尾藤広喜代表幹事は会見で「過度の飲酒やギャンブルへの支出を防ぐには専門的な治療が必要で、カードを支給しても意味がない。反対運動を展開したい」と批判した。【松井聡】